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手ぶら青梅丘陵ハイキングと、玉子六個の目玉焼き 2022年6月17日(金)
投稿日
2022/06/22
ハイキング日:2022年6月17日(金)
書くためには読書が大事だとは思うが、しかしそれほどたくさん読めるわけではない。
昨日は一日中頑張って、たったの一冊しか読めなかった。
それも面白い村上春樹の小説を。
そして最後の方はもう全然文章が頭に入ってこなくて、読書は楽しみではなく、苦痛なものになってしまっていた。
頑張って無理矢理、なんとか一冊最後まで読んだという、体たらくであった。
そうなると、読書はもう楽しみでもなんでもなく、ただただ苦行でしかない。
私はどうやら体質的に、あまり読書には向かない体質らしい。
あまりたくさん文章を読むということが、できないらしい。
だから坪内祐三のようには、到底なれない。
しかし思うのだけど、読書というものも、別にたくさん読めば良いというわけではなく、〝深く読む〟ということが大事なのではないかと思う。
一度読んだだけの本は、それで百パーセント内容を理解できるわけではなく、そんな風に一つの本の内容を充分に理解できないまま、ただ一通り文章に目を晒したというだけで、読書を済ませてしまってそれで満足して、そんな調子で百冊、二百冊と読んでみたところで、それは結局、しっかり一冊熟読することと比べると、後者のほうがはるかに有益な読書の仕方ということに、なるのではないだろうか。
つまり足早に百冊読むよりも、一冊の本を百回読むほうが、有益な読書の仕方というものではないだろうか。
どっちみち世の中にあるすべての小説を、全部読むなどということは、到底できないことである。
となると、「自分と縁のある本」、そういう本だけを特化して読んでいったほうが、良いのではないか。
つまり自分が読みたい本、自分が気になる本。
そういう本だけ、特化して読んでいけば良いのではないか。
そんな本だけ読んでいくとしたとしても、それは決して楽ではない。
読めば読むほど、気になる作家や、気になる本は、増えていくものである。
村上春樹を読んでいて、フランツカフカが気になったりなど、するものである。
それら全部を読むだけでも一苦労だし、一回読めばそれで済むという話でもない。
今、村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいるわけだが、結構長い作品であり、330ページくらいの本が、四冊もある。
これはとても面白い小説だが、一日中読んでも、一冊読むのがせいぜいだ。
内容をしっかり理解しながら読んでいかなければいけないので、読み進めながら、文章が頭に入っていなければ、また戻って読み返したりするものだから、そんなにポンポン先には進まない。
読解力の問題とも言えるのだろうが、私はあまり読解力も高くはない。
まあなにはともあれ、このしばらく読書に励み続けたためか、めっきり夜型生活になってしまった。
昨日なんて、なんと寝たのは、もう朝の六時近くである。
外はもう完全に朝なのに、それから眠るという体たらくである。
早寝早起きが健康の基本だというのに、これは一体どういうことだろう。
そして朝の六時ごろに寝て、そして眠りながら、「早く起きなければ、早く起きなければ」とうなされたり、「いや、いっそ寝たいだけ寝てしまおう」などと思ったりして、そんなふうにジレンマを抱えながら眠り続け、そして起きたときの時刻は、昼の12時であった。
なぜ、夜型生活になってしまうのか。
それは要するに、〝引きこもりがちな生活〟だからである。
家に引きこもって、読書ばかりしているからである。
だからやっぱり健康のため、しっかり登山とかハイキングとかしないと、どうしようもないということだ。
というわけで今日は昼12時に起床して、即、外出することにした。
今回は、〝手ぶら〟。
それにこだわった。
つまり、何も持っていかない。
ズボンを履き、シャツを着る。
そしてズボンのポケットに、財布、ハンカチ、ポケットティッシュ、マスク、スマホを入れる。
それだけで、外出する。
その前に、家でアップルジュースを、飲んでおく。
そして登山靴を履いて、外出する。
そして最寄りの駅にゆき、プラットホームで電車を待つ。
スマホを見ると、派遣会社からの仕事の紹介のメールがきていた。
それで、どこもこれも気に入らない案件ばかりではあったが、この調子ではいつ働けるかわからないと危機感を持ち、だからいったん「希望なし」と返事をした案件のいくつかに、「やっぱり、エントリーさせてください!」と、派遣会社の人にメールを送った。
しかし時すでに遅し。
一番〝マシ〟だった案件は、もう募集を終了したらしい。
しかしもう、こうなったら贅沢は言わず、なんでもかんでも紹介された案件は、なんでもかんでもエントリーさせてもらう!という、強気の発想が生まれた。
そんな発想が生まれたのは、まさに今日、ハイキングに出かけようとしているからだ。
ハイキングとか登山とかしていると気が大きくなって、気が強くなって、感性も健康的になり、心身ともに健全になり、何もかもがうまくいくものである。
それで派遣会社から紹介される、〝冷や飯案件〟さえも、紹介してもらえるだけありがたい、どんな職場でも、「猪のような愚鈍に、愚直に、頑張ります!」という、ナイスガイ然とした発想が、自然と生まれてくれたのである。
そうだ。
これだ。
これなのだ。
やっぱ家に閉じこもって読書ばかりして、夜型生活になって、健康を損ねて、世間一般から遠ざかるばかりの毎日、そんな生活はやはり、送ってはいけないのだ。
やっぱり、起きたらすぐ、登山! ハイキング!
それがやっぱり、ベストである。
そのようにして心と体の健康を保つことで、何もかもがうまくいく。
だってそうでしょ。
面接してもらっても、青白い顔をしたネクラ野郎よりも、いかにもスポーティーな、日焼けした爽やかボーイのほうが、採用してもらいやすいに決まってる。
そんなもん、能力以前の問題だ。
そんなふうに思う。
だからやはり、引きこもりがちな生活はよくない。
しっかり登山したり、ハイキングしたり、していかなければいけない。
そんなもん、半ば義務みたいなものなのだ。
ホームで電車を待ちながら、自動販売機で150円のお茶を購入する。
いや厳密にいえば、それはお茶ではなく、「和風紅茶」とかなんとか、そんな名前のやつで、それで「めずらしいなー」と思って、それを買ってみて、飲んでみたのだけど、でもせっかくそんなふうに、「めずらしいなー」と思って買ったくせに、全然味わって飲まなくて、適当に飲んで、気づいたら全部飲んでしまっていて、そしてどんな味だったか、まったく覚えていない。
普通のお茶と、変わりなかった?
それもまったく、覚えていない。
もっと味わって飲んでみればよかったなと、小さな反省をする。
電車に乗り、青梅駅まで移動する。
乗り換え電車は、なかなか来ない。
三十分以上、待つ必要がありそうだ。
だったらもう、青梅駅近辺の散歩で済ましてしまおうか、などと考える。
でもやはり、単なる散歩だと、少し物足りない。
別に急ぐ必要はないのだし、三十分でも四十分でも、のんびり電車を待つことにする。
電車が来て、乗り込んだ。
そして宮ノ平駅までのたったの一駅だけ、移動する。
宮ノ平駅は、無人駅である。
スイカをタッチするところがあり、「入場用」と「退場用」のものがある。
うっかりして、タッチを忘れてしまうこともある。
その場合、駅の人に事情を説明して、精算してもらうことになる。
その折に、駅の人はたいていこちらの言い分を、まるまる信じる。
本当はキセルして、九州とか北海道から、鈍行を乗り継いで東京にやってきたのかもしれないという疑いは、みじんも抱かないようだ。
しかしいつも思うが、そのように九州から鈍行電車を乗り継いで、無人駅に降りてしまえば、キセルの完全犯罪は、やすやすと達成する。
そんなことを、ふと思う。
宮ノ平駅から、青梅丘陵ハイキングコースに入っていく。
登っていき、たっぷり汗を書く。
今回は、手ぶらである。
手ぶらだと、また一味も二味も、趣きが変わる。
重いザックを背負うことなく、ハイキングをするというのも、なかなか快適な気分である。
流れ出る汗は、ポケットに入れて持っていた、小さなハンカチでぬぐう。
そのハンカチはかなり厚手でしっかりしたもので、汗を拭うのにちょうどいい。
ハンカチとは、言えないかもしれない。
〝ポケットタオル〟とでもいったような、ものである。
まずは、矢倉台に向かって歩く。
しかし、矢倉台には登っていかない。
その前を素通りして、永山公園に向かって、歩く。
むこうから、中年男性が登ってくる。
特に挨拶も交わさず、通り過ぎる。
挨拶は交わさないが、お互い慎重に、丁寧な物腰で、心の中でぺこりと小さな会釈をし合っているように、平和的に、敵意がないことをその雰囲気で示し合いながら、穏やかに通り過ぎる。
そのように歩いていると、早くもトイレにいきたくなってしまう。
それも、〝大〟のほうである。
永山公園までは、四キロほどの道のりである。
小も、ちょっとしたくなっている。
平坦な道を四キロほど歩くのは、一時間以内というわけにはいかないが、一時間半もかからないだろう。
あっさりと、歩いていけるはずである。
だからトイレは、永山公園のグランドのトイレまで、我慢することにする。
別に普通にそのくらい、余裕で我慢できそうだ。
トイレをしたいとはいっても、それほど緊急なものではない。
まだまだ充分、我慢はできる。
それもかなり余裕で、我慢はできる。
でももうこうなると、寄り道は一切できない。
もうこうなると、一直線に永山公園のグランドのトイレに向かって、進んでいくしかない。
グランドのトイレは洋式の、きれいで立派なトイレである。
そこでゆうゆうと、大をすればいい。
と思いながら歩いていると、小さなトイレがあるところに到着した。
そこのトイレは、汚い。
そして臭い。
そして小さい。
水も流れない。
これは建築現場などで仮に設置するような、小さなタイプのトイレである。
もちろん、和式トイレである。
極めて狭い和式便器のある個室トイレと、その横には立ち小便専用の便器もある。
水は使われていない。
こんなところで、トイレをするわけがない。
この暑いのに、こんな狭いトイレで、汗をかきながらしゃがんでトイレなんて、到底できない。
そんなことはせず、グランドのトイレまで我慢する。
そこの綺麗な洋式のトイレで、ゆうゆうと用を足す。
私はそのように思い、その劣悪トイレを後にする。
しかしふと思う。
今はまだ、トイレは余裕で我慢できている。
しかし、こういうものは油断ならないものである。
突然、いきなり我慢ができないレベルの便意に襲われてしまうのも、往々にしてあることである。
それにグランドまでは、なんといってもまだ四キロくらいはあるのだし、時間でいうと、一時間以上はたっぷりかかってしまう。
その間に、便意が我慢ができないレベルまで高まってしまう可能性は、決して低くない。
今回は起床してから、まだ一度もトイレに行ってはいないのである。
少なくとも、〝大〟はまだ一度もしていない。
そのような状態で、〝和風紅茶〟とやらをペットボトル一本、飲み干してしまっている。
そういうことを考えると、やはり先ほどの劣悪トイレで、トイレを済ませておいたがほうが安全だろうという、判断が生じる。
もしトイレに紙が無かったとしても、ポケットティッシュはしっかり持ってきているので、それは問題ない。
というわけで、私は先ほどの劣悪トイレまで、引き返した。
そしてそのトイレを、あらためてじっくり眺める。
劣悪だが、それほどひどい悪臭が漂っているというほどではない。
トイレをドアを開けてみると、大量の羽虫がトイレ内から飛び出してきた。
まあそうだろう。
そのくらいのことは、起こるだろう。
私はしばしドアを開けっ放しにしておいて、とりあえず羽虫の大部分を外に逃がす。
一番心配していた問題は、他者の人糞が盛り上がるなどしていて、目に触れる状態になっていて、気持ち悪くてどうしようもないという、そんな事態を心配していたが、幸いそこまで酷い状態にはなっていなかった。
そして私はトイレに入った。
そして、鍵をしめる。
そしてポケットに入れている財布やスマホなどが、便器の中に落ちてしまわないように気をつけながら、ズボンをおろし、しゃがみ込み、排泄行為にせいを出す。
そして備え付けのトイレットペーパーで、お尻を拭く。
私は太っていて、そしてトイレ内があまりにも狭すぎるため、おしりに手が届かず、難儀する。
後ろから手をのばしても届かず、前から手をのばしても届かない。
だからちょっと立ち上がった状態で、なんとかおしりを拭く。
幸い便の状態は、良い状態で出てくれたみたいで、少しお尻を拭くだけで、だいぶお尻は綺麗になったようである。
便は気持ちよく、すぽんと排出できた。
さながらそう、ゴリラの排便のように、あっさりと、すぽんと、生柔らかい固形物が、おしりから放出されたわけである。
そしてそれほど念入りにおしりを拭かなくても、便はきれいに拭き取れたようでもあった。
そしてその排出は、思いのほか、心地よいものであった。
そういえば、どこかで聞いた話である。
どこだっけ。
村上春樹の小説の中だったか。
南極とか、寒いところで住んでいるエスキモーとかは、トイレは非常に早く済ませるらしい。
で、そのトイレをすることが、大を排泄することが、生活の中でもっとも気持ちの良い瞬間らしいのである。
他に一切娯楽がない極寒の場所では、すばやく排便するときが、一番気持ちの良い瞬間であり、だからトイレをするときが生活の中で一番楽しい時間らしいのである。
これは確か、『サバイバル』という漫画で出てきた話だったかもしれない。
多分、『サバイバル』で見たのだろう。
その漫画の話は、いきなり無人島でひとりぼっちになってしまった中学生が、なんとかたった一人で生き抜いていくという話なのである。
私も今回、その劣悪トイレで排便をすませたわけだが、それはなかなかの心地よさを伴った。
この日は曇り空だったし、まだそんなに暑くもなかった。
そしてなんといっても、身軽な手ぶら状態だった。
これが重いザックを背負っていたら、なかなかこんな風にはならなかったはずである。
そんな劣悪トイレで用を足してみようなどという気には、多分ならなかったと思う。
これは、〝手ぶら〟だったからこそ遊び心が生じて、あの劣悪トイレで用を足してみようという、チャレンジ精神が生まれたわけである。
トイレを済ませ、すっきりして気分がとてもよくなった。
もう、いくらでも寄り道していい。
急いで先に進まなくていい。
たかが便のことで、自分のこれからの行動を制限されなくていい。
悠然とハイキングコースを歩いていく。
道中には青梅駅周辺を見渡せるような、なかなかの眺望スポットが現れたりもする。
ここからは登り道はなく、快適で平坦な道のりが続く。
人にはまったく出くわさなかった。
以前この道を歩いたときはジョロウグモの蜘蛛の巣に目が止まり、それをまじまじと観察してみたものである。
しかし今回は、特に蜘蛛の巣が目に止まるということもなかった。
次に青梅丘陵ハイキングコースを歩く時は、ジョロウグモのため、蜘蛛の巣にひっかけてあげるべく、パンなりお菓子なりを持ってきてあげようかと思ったものだが、蜘蛛の巣は今回は特に目に止まらなかった。
しかしまあ蜘蛛の連中も、いろいろ大変である。
せっせと蜘蛛の巣を作り、そこに獲物がかかるのを、ひたすら待ち構えている。
そしてかかった獲物を食べるのだ。
そのようにして蜘蛛たちは生きている。
完全無料で一円も使わずに、蜘蛛の連中は生きている。
蜘蛛たちは、生きるための食べ物はすべて自然から調達する。
その〝食べるためのシステム〟というのはいささか変わっていて、蜘蛛の巣を張り、それに引っかかってくる昆虫などを貪り食うのである。
しかし思うけど、引っかかった昆虫のほうもとんだ災難である。
蜘蛛の巣に引っかかってしまい身動きが取れなくなり、そして生きたまま蜘蛛から貪り食われてしまうのである。
そんなとき、昆虫は一体どんな気分になるのだろうか。
恐怖心とか、苦しみとか、痛みとか、昆虫にもあるのだろうか。
昆虫だからといって、死ぬことが平気などということはない。
昆虫も捕食者から襲われたときは、死に物狂いで逃げるのだ。
絶対に、絶対に、何がなんでも絶対に、死ぬことはイヤである。
絶対に死にたくない。
生き延びたい。
そのように思いながら、捕食者から襲われたときは昆虫もまた、全力で逃げるのだ。
俺は別に単なる昆虫だから、死ぬことなんて特に気にしない。
やれやれ蜘蛛の巣に引っかかってしまったか、じゃあもう仕方がない。
俺の命も一巻の終わりということだ。
じゃあもう仕方がない。
いまさら見苦しく、じたばたしても仕方がない。
蜘蛛のやつに食われてやろうではないか。
などと余裕をぶっこいたようなことは、決して思わない。
生き物の本能として、やはり己の命を全力で守るのだ。
おそらくそれは人間と昆虫とで、その思いはどうだろう、同じだろうか。
でもさすがに人間ほどには昆虫は、死を恐れてはいないのではないか。
昆虫と人間と同じ生き物であるともいえるが、どうだろう。
そのあたり。
一体どうなっているのだろう。
完全手ぶらでよしなしごとを、そこはかとなく思いめぐらしながら、だらだらとぼんやりと、ナメクジのようにじめじめと、私は歩き続けていた。
すると、「摩利支天を経て 市街裏宿町へ」という道標が出てきた。
やれやれその道は、下ったことがない道だ。
下ったことがない道を見せつけられてしまったならば、下っていくしかあるまいよ。
それに、「摩利支天」とやらにも興味がある。
確かハイキングコースの案内板で、「摩利支天神社」なるものが示されているのを目にしたことがある。
それはずいぶんと薄汚れた案内板であった。
ちょうどその時、後ろから賑やかにおしゃべりをしながら歩いている団体があったので、自然な形で先に行ってもらうと思い、その案内板を熱心に眺めている風を装って、自然な形でおしゃべり集団に先に行ってもらうことに成功したものである。
うむ、やはりスマホを見てみると、薄汚れた案内板に「摩利支天尊梅園神社」なるものが、確かに示されている画像を確認することができた。
そしてその場所に、いつかは必ずいかなければいけないと、心に誓ってもいた。
もしかしたらこの道を下っていくと、その神社にも立ち寄れるかもしれない。
運命的なお導き、引き合いというものが発生し、その場所に不思議な力で導かれているのかもしれない。
なんといっても「摩利支天を経て 市街裏宿町へ」という道標があるのだから、その道を下っていけば、「摩利支天尊梅園神社」という場所を、見てくることができるかもしれない。
というわけで、私はその道を下っていく。
しかし思うけど、手ぶらなので私は今、山の動物の一匹になれたような気分で、その道を下ることができていた。
ザックを背負っていると、いかにも人間という感じがするが、しかし手ぶらだと、自分がその山の中に住む、「単なる一匹の動物」という素敵な感覚を堪能しながら、歩くことができるのだ。
それは一つ、面白い発見だ。
手ぶらハイキング、悪くない。
道を下っていくと、ちょっと神社っぽいものが立っている場所に至ることができた。
神社っぽいもの、それはつまり石の灯籠であった。
その灯籠が立っていて、その左側に上に登っていく石階段がある。
これは一体、なんだろう。
その石造りの階段を登っていくと、その先には何がある?
もしかしたら単に、上のハイキングコースに戻るだけかもしれない。
なぜなら、まだちょっと下ってきただけである。
そんな怪しい石灯籠とか石階段とかが出てこられても、その石階段を登ったとしても、さすがに「単にハイキングコースに戻るだけじゃね?」と思ってしまうのも、やむを得ない話である。
そこを登っていくと〝異次元の世界〟、つまり〝メタファーの世界〟に迷い込んでしまい、顔のない人物に出くわしたり、その人物に〝ペンギンのお守り〟を渡して、〝時の川〟を船で渡らせてもらったり、そして洞窟を這いずって進んだり、そんな、〝色も味もない世界〟、そんな〝メタファーの世界〟に迷いこんでしまうなどということが、果たしてあるだろうか。
そして、〝二重メタファー〝が私の足首にその触手を伸ばし、永遠の闇の中に引きずりこもうとしたりなどするような、大冒険が始まってしまうのだろうか。
やれやれ、村上春樹の『騎士団長殺し』のように、そんな世界に突然迷い込んでしまうなんてことは、その挙句、美しい白髪の免色さんから助け出されるというようなことは、現実世界ではとうてい起こりうるはずがない。
というわけで、その石階段は登らない。
でも機会があれば、ほんの少しでも気になったことは確かなので、その石階段の上に一体どんな世界が待ち構えているのか、それを一度は確かめてこなければならない。
そして〝秋川まりえ〟を助け出さなければならない。
道を歩いていると、野イチゴらしきものが出てきた。
それを早速もぎ、そして手で潰してみて、確かにフルーティーな、酸っぱいような匂いがすることを確認した上で、さらにぺろりと軽く舐めてみた上で、「うん、これは確かに野イチゴだ」と確認した上で、それをありがたく食べさせて頂いた。
するとドラゴンボールの〝仙豆〟であるかのように、勇気百倍、元気百倍、すべてのヒットポイントが回復した。
さながらドラゴンクエストで僧侶から〝ベホマ〟をくらったような、そんな爽快感が体中をかけ巡り、そして髪の毛が逆立ち、金髪になり、スーパーサイヤ人にもなれたような気がした。
実際のところ「摩利支天を経て 市街裏宿町へ」と書かれた道標から下りはじめ、ほんの20分くらいで、下の普通の道まで降りることができたと思う。
そこには神社があった。
「稲荷八幡神社」と、「裏宿神社」であった。
「裏宿神社」の御祭神は、大山祇神と摩利支天であるらしい。
摩利支天って、一体なにもの?
と、かすかに気になる。
〝かすか〟レベルなので、別にどうでもいい話ではあるのだけど、まあせっかくなので、ほんの軽くだけネットで調べてみる。
まあウィキペディアで調べてみたが、ちょっとぼんやりした話であった。
以下、ウィキペディアから、一部を抜粋する。
===
摩利支天(まりしてん)は、仏教の守護神である天部の一尊。梵天の子、または日天の妃ともいわれる。摩里支菩薩、威光菩薩とも呼ばれる。
摩利支天(マーリーチー)は陽炎、太陽の光、月の光を意味する「マリーチ」を神格化したもので、由来は古代インドの『リグ・ヴェーダ』に登場するウシャスという暁の女神であると考えられている。陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。
===
まあ、わかったようなわからんような、そのような説明である。
つまり、よくわからない。
しかし現状は、別にそれほど摩利支天のことを、何がなんでも知りたいとか、そんなことはこれっぽっちも思っていないし、もともと別に、かすかに気になったくらいの話で、別に調べるほどのことでもなかったわけだから、摩利支天についての理解が不十分であることは重々承知はしているが、今回はもう、これ以上調べることはやめておく。
というわけで、そこから青梅駅まで歩いてほんの15分程度である。
今回のハイキングは実にあっさりと軽く、短く終わったなあなどと思いながら、青梅駅に向かう。
すると前からきたカゴを背負ったおじさんから軽く会釈されたので、私も慌てて会釈を返した。
山の中でもあるまいし、一般道で見ず知らずの私に、なぜその人は会釈してきたのだろうか。
もしかして私のヘアースタイルが一ミリの坊主だったものだから、山で修行しているお寺の坊さんか何かなどと、思われたのだろうか。
実際は一ミリの坊主にしておけばシャンプー代もかからず、寝癖もつかず、そんなに頻繁に床屋に行く必要もなくなるなどメリットばかりであるため、そのようにしているだけである。
まあ、ご婦人からモテたいのであれば一ミリの坊主なんかにせず、格好いいヘアースタイルにしなければいけないに違いないが、しかし実際に髪の毛を伸ばして、格好よいヘアースタイルとまではいかないまでも、まあそこそこ色気づいたヘアースタイルをしていた時期もあったが、それでも結局、モテないものはモテないし、ヘアースタイルが一ミリの坊主でも、キムタク風のサラサラヘアーであっても、結局モテないものはモテないし、ご婦人をゲットできないのは同じことなので、だったら最初から〝モテ〟など期待せず、ヘアースタイルは〝一ミリ坊主一択〟、そのような判断になってしまっているのである。
まあそれはいいとして、さてこれから何食おう。
今日はまだ、先ほど軽く山道で野イチゴを食わせてもらっただけで、それ以外は何も食べていない。
何を食おう。
何を食いたいか。
などと思いながら青梅駅に向かっていると、やっぱり食いたいのはどうしても、〝肉〟である。
やっぱり、肉が食いたいのである。
そして青梅駅の駅前にはオリジン弁当があるので、そこで鶏の唐揚げを大量に買って、それを貪り食ったらどれほど嬉しいだろうかということを考える。
でもその一方、家には先日購入した玉子の六個パックもあるのである。
タンパク質を取りたいのであれば、わざわざオリジンの唐揚げを買う必要もなく、その玉子六個で、そうだな、目玉焼きでも作ってくれば、それだけで最高に美味しいはずである。
家にはキャベツ汁もある。
ごはんもある。
だからキャベツ汁とごはんと玉子六個の目玉焼きを食えば、それで飯としては充分だと思う。
なのにわざわざオリジンで唐揚げを買って帰る必要がない。
それは明らかに贅沢というものだ。
いや、この際はっきり言わせていただくと、金を持ってる持ってないとか、そんなことは関係なく、とにかく節約をしなければいけないのである。
無闇やたらに金を使ってはいけない。
言いたくないけど、結局金使いの下手な人間のもとに、金なんて集まってこないのだ。
金使いの上手な人間、つまり一円の無駄使いもしない人間、一円の金でも有益に使える人間、そんな金使いが巧みな人間のものに、金というものは集まってくるのではないだろうか。
すでに家に玉子六個があるのであれば、だったら別にオリジンで唐揚げを買う必要はないのである。
唐揚げを食いたいのあれば、まずは先にその玉子六個を片付けてからの話である。
それをしてはじめて、〝無駄使いをしていない〟と評価することができる。
そんなことを思いながら、青梅駅に到着した。
しかし未練だぜ。
やはりどうしても、どうしようもなくオリジンの唐揚げが食べたくて、ついついふらーっとオリジン弁当に入ってしまう。
で、鶏の唐揚げ、三種類くらいあって、そのたっぷりサイズのやつを二つ買えば、確か料金は税込で770円くらいみたいだし、いうてもそんなにべらぼうに無駄使いというわけではない。
770円使うくらいは別に許されているのではないか。
別に玉子のほうはすぐ賞味期限が切れるわけではなし、別にそんなにすぐに慌てて食べてしまう必要はないのである。
だったら今、唐揚げを買って帰ればいい。
今みたいに運動した後に唐揚げ食ったら抜群に美味いのだし、そんな美味い思いをして存分に幸福感を味わうことの、何が悪い?
そんなもん、いちいち無理して玉子を食う必要なんてまったくないし、そもそも玉子はいつでも食える。
でも、オリジンの唐揚げは、今みたいにオリジンの前を通り過ぎるような機会がない限り、なかなか食う機会には恵まれないものなのだ。
そのくらいの出費が、別にどうだというのか。
今、このタイミングで美味しい美味しいオリジンの唐揚を、770円出してたっぷり買って、家に帰って貪りくえば、それは本当にべらぼうに美味いよ。
美味いにもほどがあるよ。
そんな風にも思い、ジレンマを抱える。
で、長考に入り、オリジンの店の中でよだれをたらさんばかりの顔つきで、ずっと唐揚げを睨んでいた。
しかし今回は欲望に打ち勝った。
今回は何も買わずに、オリジンを出た。
オリジンの床に、ぽたぽたと滴りおちたヨダレだけを残して。
オリジンの唐揚げを食べるのは、またの機会にする。
今回は玉子六個を全部、食べてしまう。
玉子六個で、目玉焼きを作る。
今まで目玉焼きで、玉子六個も使ったことは、今までに一度もないのではないだろうか。
でも今回は、それをやってみようと思うのだ。
目玉焼きを作って、さらにそれに〝さしみ醤油〟をかけて食う。
フライパンにたっぷりのサラダ油をいれる。
そして玉子六個を入れる。
そしてその上に、主に黄身の部分を中心にして、〝さしみ醤油〟をたっぷりかける。
そしてフライパンに蓋をして、しばし熱する。
そうしたら、きっとうまいぜえー。
絶対うまいぜ、それは。
なんといっても、やっぱりなんといっても、〝さしみ醤油〟って、最強なのである。
〝さしみ醤油〟をかければ豆腐とか、こんにゃくとかでも、べらぼうに美味くなる。
それを今回は目玉焼きにたっぷりかけて、食ってやろうというわけだ。
うん。
これは絶対にうまい。
それはナイスアイデアだ。
私はその料理アイデアを編み出したので、だから今回は〝オリジン唐揚げ不要説〟、それを唱えることができた。
というわけで、私は青梅駅から電車に乗り、自宅の最寄駅まで移動した。
そしてどこにもよらず、まっすぐに家に帰った。
家の中に入って、ベランダのドアを開け、部屋の中のよどんだ空気を外に追い出し、外の新鮮な空気を部屋の中に呼び込んだ。
そして早速、調理開始である。
まず玉子六個を耐熱ボールに割り入れて、ラップをして、電子レンジで1〜2分温めた。
すると、玉子のかたまりの縁側がうっすらと白くなる。
なぜこんなことをするのかというと、それにはちゃんとわけがある。
冷蔵庫で冷えた玉子をいきなりフライパンに入れると、ほぼ間違いなく玉子はフライパンにこびりついてしまうからである。
玉子が一つとか二つくらいだったら、フライパンにこびりつくことはない。
しかし今回は、なんといっても六個いっぺんに焼くのである。
普通に焼いたら、確実にこびりつく。
だからそれをふせぐため、まずは電子レンジで玉子を軽く温めた上で、フライパンに投入しようかと思うのだ。
フライパンは水で洗う。
そして火にかける。
洗った水が全部蒸発するまで、火にかけつづける。
水分が蒸発したら、そこにたっぷりのサラダ油を入れる。
そこもやはり、〝たっぷり〟でなければならない。
そうしないとやはり、玉子がフライパンにこびりつきやすくなってしまう。
そしてフライパンがもくもくと煙がたつくらいまで、フライパンを熱々にする。
そうした上で、ようやく玉子六個を投入する。
すると、玉子は勢いよく焼かれる。
すでに〝ワサビ醤油〟は作っておいた。
茶碗に醤油を入れ、そこにチューブのワサビをたっぷり入れる。
そしてよく混ぜる。
そのようにして作ったワサビ醤油を、フライパンで焼かれている玉子にかけていく。
おもに黄身の部分を中心にかけていくが、それだけにとどまらず、基本的に全体に満遍なくゆきわたるように、ワサビ醤油をたっぷりかけていく。
そうした上で、フライパンに蓋をする。
そしてしばし待つ。
そして黄身があまり固くなりすぎないくらいの時間で、火を止める。
これで玉子六個の目玉焼きは完成である。
すぐにフライパンから剥がそうとすると、フライパンにこびりつくだろう。
だからしばし、そのままおいておく。
十分程度はおいておく。
すると目玉焼きはフライパンにこびりつくことなく、するりとフライパンから取り出すことができるようになる。
これぞまさに、〝生活の知恵〟である。
キャベツ汁も温めた。
キャベツ汁の作り方は、〝おでんの素〟というような名前の顆粒タイプのものを、一リットルの水に入れておく。
その中にキャベツを入れる。
そして20分くらい煮る。
以上。
これで、おでん味の美味しいキャベツ汁の出来上がりだ。
〝おでんの素〟は、一リットルで一袋の袋が、二袋入っている。
スーパーで買ってきたものである。
味は、かつおぶしっぽい味がする。
本来は、おでん味の汁も自作すべきであるところだが、作り方がわからないし失敗したくないので、今回はスーパーで購入した〝おでんの素〟を使用したというわけだ。
そのようにして今回は、ワサビ醤油たっぷりの目玉焼きと、キャベツ汁と、たっぷりごはんで食事をした。
目玉焼きはまあ、美味いことは美味かったが、正直ワサビ味はかなり取れてしまっているような感じで、単に醤油の味しかしなかった。
だから特別美味だったわけはないが、まあ美味いことは美味かった。
文句なしに、ある一定水準以上は美味かったと言ってよい。
それにこれで、たっぷりの良質なタンパク質を摂取できたことにもなるわけで、これでまた〝筋肉もりもり〟、〝元気もりもり〟、ということにもなるだろう。
本来は肉とか魚とかを食べたほうが良いには違いないが、今回は節約して、玉子でもってたっぷりのタンパク質を摂取させて頂いた。
そしてキャベツ汁で、たっぷりのキャベツも摂取することができた。
キャベツは万年冷蔵庫に眠っていた、ほぼ腐りかけキャベツであり、生で食うとなんかちょっと変な味がしてしまうような、〝ギリギリアウト〟くらいのキャベツであったが、しかしそのキャベツも無事、〝キャベツ汁〟という形で、立派に役割を果たして、私の体の一部になってくれた。
そう、そのキャベツは私に食われるために生まれてきたキャベツであり、腐ってゴミ箱行きになるようなそんじょそこらのキャベツは、一味違うキャベツなのである。
そのキャベツは私に食われることで私の体の一部なり、今後私はそのキャベツと共に、二人三脚で生きてゆく。
というわけで、今回のチャレンジ、それは〝手ぶら〟ということ。
手ぶらでハイキングが、できるのか、できないのか。
それを自ら体を張って検証してみた結果、〝それは可能〟、そのような発見が今回あらたに見い出された。
それにより私の可能性が、また少し広がった。
登山とかハイキングとは充分な装備が必要、ヘッドライトが必要、レインコートが必要とか、偉い人は色々言うけれど、そうではないのだ、ふんどしいっちょ、海パンいっちょでも、登山は可能。
人間その気になれば、気合を入れてば、根性入れれば、信じられないような不可能に思えるようなことでも、意外と易々とできてしまうものである。
まあ、赤ぼっこ、青梅丘陵ハイキングコース、高尾山、日和田山クラスであれば、別に手ぶらでもいける。
雨に降られると濡れてしまうが、でもそれで死ぬわけではない。
そのような当たり前の事実を今回しっかり検証できたので、それはそれで、それなりに満足である。
ただ高水三山クラス、本仁田山クラスだと手ぶらはきついかもしれないが、でもトレイルランニングの人とかは手ぶらで走ってるようなもんだし、トレランの人たちができるのであれば、当然私にもきっとできるに違いない。
夏期、単独、無酸素。
そして、手ぶら。