産安社の御祭神の一柱、息長帯比売命
投稿日
2021/11/30
御岳山の武蔵御嶽神社の摂社で、産安社という神社があります。
ケーブルカー御岳山駅、御岳平から、歩いて10分ほどでいける距離に産安社はあり、夫婦杉や、子授檜、安産杉などもあるところです。
そのように、ケーブルカー御岳山駅のすぐ近くにある産安社ですが、そこでは三柱の神様が祀られています。
富士山の浅間神社の御祭神で有名な、木花咲耶比売命と、その姉神の磐長比売命と、息長帯比売命の三柱です。
で、息長帯比売命という神様がどういう神様なのかがわからなかったのですが、調べてみて、どういう神様かわかりましたので、ご報告します。
息長帯比売命は、神功皇后です。
神功皇后は、仲哀天皇の妻です。
そして、八幡信仰の象徴である応神天皇の母親です。
で、神功皇后はすごい人で、夫が死んだ後、夫の代わりに新羅を攻め、新羅を制圧します。
それも、妊娠中の身でありながら、全軍を指揮して、戦争で勝ってしまうような女傑です。
戦争中は出産を遅らせるため、鎮懐石を腰に巻き付け、戦争を指揮していたようです。
神功皇后はそのような女傑であり、神の声を聞く巫女でもあったようです。
明治五年には、日本初となる肖像画入り紙幣にもなりました。
一円札です。
そのように、応神天皇を育てた慈愛溢れる母であり、夫の代わりに戦争して新羅を制圧するような女傑でもあったわけです。
それが神功皇后であり、息長帯比売命です。
そのご利益は、安産、子宝、武運長久、家内安全です。
しかし思うのですが、神道において、神様は、いろんな神様がいます。
八百万の神、と呼ばれているように、数え切れないほどの神様がいます。
そして、天皇や皇后、その息子など、実在したとされる人物が神様になっていたりもします。
例えば、明治神宮では、明治天皇が祀られており、菅原道真は天神様として祀られていたり、徳川家康なんかも、東照大権現として、東照宮で祀られています。
日本武尊だって、景行天皇の、息子です。
そしてその日本武尊を助けた日本狼が、大口真神という名前の神様として、武蔵御嶽神社なんかで祀られています。
キリスト教や、イスラム教は、絶対的な唯一神を信仰しているわけですが、神道では、たくさんの神様を信仰しています。
それも、元々は人間であった人を神様として祀っているケースが多くて、だからその神様たちも、とても人間らしい、欠点の多い、身近に感じられるような神様も多かったりします。
仏教なんかでは、ブッダは、元々人間だったわけだし、仏教もやはり、キリスト教とはかなり違います。
キリスト教では、人間と神様は完全に違います。
神様は絶対的な存在です。
だからキリスト教では、人間が神になるという発想は、ありません。
そんなことを言うと、神を冒涜しているとされ、怒られます。
だから信者は、ただひたすら、か弱い子羊として、神を信仰するわけです。
しかし仏教では、人間が仏になるという発想です。
人間が仏になるために、仏教の人たちは、修行をしていたりします。
煩悩を消し去ることを目指して、修行して、涅槃寂静の境地を目指しています。
そしてブッタと同様に、悟りを開き、人間が大菩薩になり、如来になることを目指すわけです。
だから、仏教とキリスト教は、やっぱり全然違います。
神道も、どちらかというと、キリスト教よりは、仏教に近い気がします。
菅原道真とか、徳川家康とか、その他、偉大な人たちは、死んだ後、神社で神様として、祀られたりするわけです。
そういうもともと人間であった人たちを、拝み、ご利益を賜ろうとするわけです。
そういう取り組みに対して、そういうものは無意味だ、そういうものは効果がないと言ってしまうのは、簡単です。
しかし果たして、そう言い切れるでしょうか。
確かに、縁結びの神様への参拝を何度も繰り返しているにもかかわらず、「で、結果は出たの?」などと、意地悪く言ってくる人もいるわけです。
しかし、そもそも、その発想自体がおかしいのです。
「マンガでわかる 日本の神様」という本に書いてあったのですが、ご利益というものは、神様に願い事を叶えてくれるように、お願いするものではないのです。
あくまで、願いを実現するのは、本人なのです。
本人が最大限に頑張った上で、神様に何を願うのかというと、御加護を願うのです。
つまり、「彼女が欲しいです。どうか彼女をください!」と、言う願い事は、間違いです。
その場合、「私は彼女を作ります。どうぞご加護をお願いいたします」と、願うべきなのです。
つまり、それでも彼女ができないのであれば、それは神様が悪いのではなく、本人の努力不足というわけです。
本人が努力不足だったら、いくら神様がご加護を賜ったとしても、結果が出せないのは当然です。
「ご加護」とは要するに、お力添えを賜る、ということです。
つまり、頑張ってもないのに、最大限の努力をしてもいないのに、お力添えを賜ることはできないわけです。
まさに人事を尽くして天命を待つということです。
神様のご利益とは、そういう意味合いのものであると、私は理解しています。
だから結果ができないのは、あくまで、本人の努力不足である、というわけです。
まあ例えば、私が、彼女を作りたいと願い、大国主神に、それを願い、ご利益を賜りたいと願ったとします。
縁結びのご利益といえば、大国主神です。
でも、そんな風に、熱心に参拝したとしても、本人がぶくぶく太って、お洒落も何もせず、清潔感も気にせず、いつも無愛想で、女性を楽しませようという努力をしない。
あるいは、女性とばかり仲良くしようとして、男同士の付き合いとか、恋愛とは関係のない付き合いを、軒並み全部、雑に扱う。
つまり、人間としての付き合いを、きちんとしない。
人に優しくしない。
誠実に接しない。
感じよく接しない。
店員さんとかに対して、横柄な態度を取る。
つまり、人として、ダメな態度を取る。
あるいは、人を馬鹿にする。
そんなような生き方をしていて、いくら大国主神に「彼女をください」とお願いごとをしたとしても、そして大国主神が、それに対して、たくさんの良い縁を私に提供してくれたとしても、私はその縁を、全て雑に扱い、その縁の全てを、全て台無しにしてしまう、ということだって、充分あり得るわけです。
例えば、私と赤い糸で繋がっている女性の、お兄さんと、仲良くする機会が、せっかく恵まれたというのに、そんな、男同士の付き合いなんて、やっても無駄、そんなことより彼女が欲しい、男同士の付き合いなんて、やってる暇はない、とにかく早く彼女が欲しい、などと、抜かして、そのお兄さんとの付き合いを、ないがしろにした場合、せっかくそのお兄さんと仲良くなれば、運命の人である妹さんと、やがて仲良くなれる運命を、賜われたとしても、その縁を、自らぶち壊しにしてしまうというわけなのです。
だから要するに、縁というものは、原則的には、全ての縁は、神様から賜られたありがたい縁であり、その縁の良し悪しを、人間の愚かな知識で、勝手に判断してはいけないというわけです。
そんなことを、せずに、大国主神が賜ってくれた大切な縁は、何から何まで、一つ残らず、大切に扱うべし、そのように思うのです。
それに対して、人間の軽率な判断で、あ、この縁、意味ねえな、とか思って、雑に扱ったり、簡単に縁切りしたりとかした場合、神様はなんて思うでしょう。
せっかく、縁をあげたというのに、それを全部、ドブに捨てるような真似ばかりしてる人間を見て、「あ、こいつダメだ。もう何もしてやらん」と、言われてしまっても、仕方がない話です。
良縁というのはそのように、人間が簡単に判断できるものではないのです。
だからすぐにラインをブロックするとか、あっさり関係を断ち切るとか、そんなことばかりしていたら、絶対に良い縁には恵まれない。
そのように思うわけです。
そのあたりをしっかり肝に銘じて、今後も励んでいきたいところです。