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御嶽信仰
投稿日
2021/12/06
秩父御岳山が、気になってます。
で、ちょっと調べてみたところ、秩父御岳山は、御嶽信仰の山の一座とのこと。
御嶽信仰とは、なんなのか?
よくわからないのですが、ネットで目にした情報を、いくつかピックアップします。

木曽御嶽山をご神体とする。

狭義には木曾の御嶽山に対する信仰。広義には山を,神ないし神の住むところとして神聖視する古代からの山岳崇拝をいう

長野県と岐阜県にまたがる、木曽御嶽山を中心とした山岳信仰であります。古くは「王の御嶽(みたけ)」と称し、鎌倉期頃には熊野や吉野の影響を受けた地方の修験者によって國峰として信仰されたと言われております。
その後、室町中期頃から道者と呼ばれる木曽谷の山麓諸村落の人々による登拝が行われました。古来より、百日精進重潔斎をした後に登拝するという掟がありましたが、近世に入り大衆的な山岳登拝の気運が高まり、覺明、普寛両行者により軽潔斎のみでの登拝と登山道が確立し、御嶽信仰が広まりました。

まあ、そんな感じです。
よくわかりませんが、概ね、なんというか、要するに、「広義には山を,神ないし神の住むところとして神聖視する古代からの山岳崇拝をいう」という部分で、ひとまず理解しておきます。

で、秩父御岳山。
この山の麓にある、落合集落なる集落が、普寛上人という方の、生まれ故郷のようです。
で、その普寛上人こそが、木曽御嶽山を開山したわけですが、秩父御岳山もまた、その普寛上人が開山下山のようです。
そのように秩父御岳山、なかなかの信仰の山です。

で、「現代山岳信仰曼陀羅」という本の中に、秩父御岳山のことが書かれていて、その、御嶽信仰の方達が、秩父御岳山に、修行で登っているようなのです。
で、どうも、御嶽信仰というものは、かなりスピリチュアルなものであり、悪い言い方をしてしまうと、かなり胡散臭いです。
というのは、御嶽信仰の方達が、秩父御岳山の山頂まで行って、円になって座り、お祈りをしていると、そのグループの代表者に、突然、普寛上人が乗り移り、そして普寛上人が、ありがたいお言葉を、語り出すらしいのです。
それ、かなり胡散臭いです。

あくまで個人的な感想です。
真面目に御嶽信仰をされている方が不快になったとしたら、謝ります。

で、その、要するに、過酷な修行をして、霊能力を得る。
そしてその霊能力で、信者の願いを叶える。
または、その願いを叶えるための、お手伝いをする。
その、霊能力者のお祈りは、無料ではありません。
有料です。
霊能力者は、過酷な修行で、神通力を得て、信者の願いを叶えるお手伝いをする力を得ているわけです。

これ要するに、この信仰を悪用している人たちは、壺を百万円で買わせたり、ネックレスを百万円で買わせたりする、霊感商法をしている人たちかもしれません。
それと大体似た傾向のことをしているのが、御嶽信仰であるという認識を、今は持っています。

でもまあ、私は単に、ちょっとネットで調べたり、ちょっと本を読んでみた感想で述べているので、単なる個人的な意見であるとお考えください。
やはり、真面目に修行をされている方たちについて、あれこれ意見を述べる資格は、私にはありません。

しかしまあ、理屈はわかります。
山には神が住んでいる。
それは昔からある考えです。
で、修行として登山をする、修験道という宗教があります。
で、修行をして、神通力を得る、超人的なパワーを得る、そういうことは、胡散臭いとは思いますが、しかし、過酷な修行をすることで、常人ではわからないような何かを、悟ることも、できるかもしれない。
そりゃそうでしょう。
特殊な経験をしていれば、その経験をした人にしかわからない、真実というものは、きっとあるはずです。
それは別に、修験道に限らず、女性には女性にしかわからない真実もあれば、男性には男性にしかわからない真実もあり、人それぞれ、やっぱり、それを経験したものにしかわからない真実というものは、きっとあるでしょう。

まあ、ちょっと話がややこしくなってしまいました。
そもそも、普寛上人とは一体何者なのか。
それをちょっと、探ってみます。

普寛 ふかん 1731-1801 江戸時代中期-後期の修験者(しゅげんじゃ)。 享保(きょうほう)16年生まれ。 郷里武蔵(むさし)秩父郡(埼玉県)の三峰山観音院で修行し,のち諸国を遊行して上野(こうずけ)(群馬県)三笠山などをひらく。

普寛聖人は享保16年5月大滝村に木村信次郎の子として誕生、少年時代より剣術を好み、一時は酒井雅楽頭家で25人の扶持を得ていたという。天明2年、傅灯大阿闍梨となり寛政4年木曽御嶽山開山、次いで寛政6年越後の八海山開山、更に寛政7年上州の武尊山を開山した。胃薬「百草」の創始者であり、巡錫中貧しき人々を救い、木食普寛とも称した。享和元年秩父へ帰ろうとして本庄宿米屋弥兵衛方にて死す。享年71歳。

ついでに普寛講について。

普寛講(ふかんこう)とは、東京都稲城市にある明治時代初期に創始された御嶽講の団体。開祖は修験者の松浦利平。

御嶽講とは、木曽御嶽信仰に基づく講社で、一般に木曽御嶽信仰の開祖である覚明を継承する講社を「覚明講」と呼び、第二の祖である普寛を継承する講社を「普寛講」と呼ぶ。通常、普寛講といっても講社としての名称はさまざまだが、この講社では、講社独自の経緯から「普寛講」を団体の名称としている。

松浦は木曽御嶽山での修行の際に普寛行者と一体化する宗教体験を持ち、木食普寛(もくじきふかん)を名乗って加持祈祷を行うようになった。

一時期は神習教(しんしゅうきょう)の傘下に入って活動するが、やがて普寛講(普寛教会)を組織する。普寛講の最盛期は明治20年代から昭和初期とされ、特に病気平癒や徴兵除けの祈祷で知られていた。

現在も、東京都稲城市百村201に本部が存在する。人通りの少ない細い道に面しており、背後は林に面している。普段は、無人の様子。

まあ、大体そんな感じです。
概ね、理解しました。
もちろん、正確な理解とは程遠いとは思いますが、ひとまずのとっかかりとして、ある印象は、獲得することができました。
普寛という方は、貧しい人を救うような、立派な方だったということですね。

まあその後、宗教の流派が、色々出てきて、その中には、それを悪用して、霊感商法などを始めた人もいるし、あくまで、真面目に修行し続けている人もいる、ということでしょう。

まあ、とにかく、秩父御岳山は信仰の霊山である、ということは、理解できました。

まあ、近々ちょっと登ってみようかなとは思ってますけど、往復で五時間半くらいかかるみたいで、なかなか甘くないです。
御嶽信仰というものについても、登山をしていると、いろいろ触れることもあるかもしれません。
ちょっと気にしながら、登山していこうかと思います。
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