HOME > 赤ぼっこは336円 2022年6月7日(火)
赤ぼっこは336円 2022年6月7日(火)
投稿日
2022/06/09
2022年6月7日(火)。
スイカを改札機に当ててみると、そこには1144円入っていた。ではこの日はもう、一円も使う必要はない。
最寄駅から宮ノ平駅までの電車賃は168円である。帰りは宮ノ平駅から帰るのか青梅駅から帰るのか、まだ決まっていない。青梅駅からだと交通費は、157円で帰ってこれる。つまりこの日の往復の交通費は、336円以下で済むということだ。
それ以外、この日はもう一円も使うつもりはない。今日もまた、しっかり赤ぼっこに登ってくる。もう何回も登っている赤ぼっこだが、この日ははじめてその山に登るかのような新鮮な気持ちで今、私は赤ぼっこに向かっている。
一昨日スーパーで「爽やか 糖しぼり大根」という名前の、大根の漬け物を買ってきた。それはまるまる一本の大根を漬けこんだ漬け物で、料金は税別で178円くらいであったと記憶している。それを買うか、タクワンを買うか迷ったが、タクワンは黄色の着色料が入っているみたいだったので、それが入っていないように見える真っ白な「糖しぼり大根」の方を買うことにした。それを買うのは初めてではなく、それが美味しいことはすでにわかっていた。それを一昨日、小さく切ってジプロックに入れて、冷蔵庫に保存しておいた。
今日は起床が遅すぎて、起きて時計を見ると、すでに昼の12時だった。寝たのは深夜3時くらい。ということはだらだらと9時間くらい、ずいぶん長く寝たものだ。
それもそのはず、「今日は一日中寝込んでしまおう」くらいのつもりで、布団と一体化したかのような態たらくで、本格的にぬくぬくと眠っていたのである。別に体調が悪かったわけではない。健康状態は、至って普通である。しかし私は一昨日、アマゾンで三千円の本を購入してしまい、それについてまたしても無駄遣いをしてしまったという想いに苛まれ、それをひどく気に病んでいた。
無職無収入の現在は、本来なら一円の無駄遣いもせず求職活動に励まなければいけない状況であるというのに、しかし実際は数ヶ月間は無職無収入のままで過ごそうという気持ちになってしまっている。そしてその間に家に大量に溜まっている、買っただけで読んでいない本やマンガを、一ページずつせっせと読み進めていこうかと思っている。
せっかく苦労して稼いだ金で購めた本やマンガなので、読まずに捨ててしまうのは勿体ない。だからせっせと読んでいく。すべて読むのは無理だとは思うが、せめて気になる本だけは読んでいく。そしてそれらを全部読み終えた後で、はじめて本格的な求職活動をしようかと思っている。
しかしそのためには無職無収入のまま数ヶ月過ごす必要があり、そのためには節約生活をしなければいけない。無駄金は一円も使ってはいけない。そしてそれができてこそ、はじめてもう数ヶ月は読書三昧の日々を送ることが可能になる。
とは言っても、私は別に読書が好きなわけではない。読書が嫌いというわけではないが、読書なんて一日一時間とか二時間とかすれば充分であり、それ以上ムリして読書するのであれば、それはもうはっきりと苦痛以外の何物でもない。
読書をしすぎると、目も悪くなってしまう。私はそれよりも、外をほっつき歩くほうが好きである。自然に触れたり、知らない街を歩きまわったり、大きな公園に行ってみたり、海に行ってみたり、山に行ってみたり、そういうことの方が私は好きである。
つまり家にいるより、外にいるほうが好きである。しかし現在読書三昧の日々を過ごすハメになってしまったため、家に引きこもりがちな生活になってしまった。そんな生活は糞面白くもないのである。だから仕方なく定期的に登山をして、定期的に心と体をリフレッシュしないと、健康状態を保つことができないのである。
私は「顎関節症らしき症状」の持病に悩まされており、本当はその症状がすべて綺麗さっぱり治ってくれると良いのだが、そんな奇跡のようなことが起こるわけもなく、だからせめてさらなる症状の悪化を防ぐために、健康に良いことをしっかりとしていかなければならない。登山に行って良い運動をするだけでなく、野菜もたくさん食べて、栄養バランスの良い食事も心がけなくてはならない。
というわけで、この日は昼の十二時に起き、外では一円も金を使わないことを決め、ジプロックにごはんを詰め、その上に「糖しぼり大根」を十枚ほど載せた。そしてそれと割り箸を、ビニール袋に入れて、弁当完成とした。飲料はフレッシュ水道水を900MLのペットボトル二本分、持っていく。
そのような用意をして外出して、駅の電車に乗り込み、宮ノ平駅まで移動した。ぱらぱらと小雨が降っていたのでレインコートを着ていたが、やがてその雨もやんだので、レインコートも脱いだ。そしてゆっくりとした足取りで、赤ぼっこの登山口へと向かう。
そのあたりのコースは、「長淵山ハイキングコース」というらしい。しかし「長淵山」という山は、見かけない。そのあたりにある山(ピーク)は、要害山、愛宕山、松龍山、赤ぼっこ、天狗岩、くらいのものである。「長淵山」とは、一体なんだろうとネットで少し調べてみるも、その答えとなる情報を見つけることはできなかった。まあ、ひとまずは、その件については、気にしないでおく。
宮ノ平駅から、赤ぼっこの登山口までは、もう何度も歩いたものである。そろそろ、そのあたりに住んでいる人たちが、私の存在を、気にしだしてもおかしくない頃である。「あいつ、よく来るな……」と、思い始めるような、頃合いである。
歩いていると、後ろから、パトカーがやってきて、ぎくりとする。別に悪いことはしていないのだが、平日の昼間にうろうろしている中年男は、不審者とみなされてしまい、警戒され、職務質問の対象となっても、おかしくない。しかしパトカーは、ゆるゆるとした速度で私の脇を通り過ぎながらも、止まることなく、通り過ぎてくれる。いかのも登山者の格好をしている私は、それほど不審には思われなかったようである。
そのあたりの住んでいる人が、家の庭いじりをしていることもあり、過去になんどか見かけたことのある人が、やはり庭いじりをしていて、私をジロジロ見るということはしなかったが、なんとなく、「あいつ、また来たな……」とでも思っているような、なんとなくそんな雰囲気が、ひしひしと伝わってくる。それでもその辺りは、あまり人の姿を見かけない。のんびりと歩いていける道である。
しばし歩くと、和田橋という橋を歩くのだけど、そこからの下の眺めはとても迫力がある。そこから下を見ると、あまりにも高すぎて、いつもヒヤリとしてしまう。ここから落ちてしまうと、確実に即死してしまうことは間違いない。だから下を見ると、いつも足が震えてしまう。
その和田橋を歩いた時、「高尾山では絶対に見ることができない眺めだ」と思い、最近私は毎回高尾山ばかりに行っていたが、高尾山では見れないような素晴らしい風景が、他にもたくさんあるのだということに気づき、それがきっかけで、「登山は高尾山一択」という流れからの脱却に成功できたのである。そして最近は、「登山は赤ぼっこ一択」という程ではないが、それでもかなり頻繁に、赤ぼっこ周辺に訪れるようになってしまった。
それはなぜかというと、やはり赤ぼっこが、私の家からは一番安く来ることができる山であるということが、その一番の理由である。それに赤ぼっこは、景色も良いのである。そしてそのあたりのハイキングコースは運動の程度とか、歩く距離とかも、ちょうどいいのである。
草木や花、自然に触れるという面でも、申し分ない。良い運動になるし、自然にふれて、心も体もリフレッシュできる。そしてなんといっても、安い。赤ぼっこは、一番安く登山できる、山なのである。そんな財布に優しい赤ぼっこ登山が、現在無職無収入の私にとっては、とてもありがたい。
本当は、私は悩んでいた。無職無収入の今、登山なんかしている暇はない。そんな風にも思い、悩んでいた。登山の日はやはり、なんだかんだといって三千円くらいは使ってしまう。下手したらもっとたくさん金を使ってしまう。そして私の中でも、登山をする日は、金を使っても良い日、そんな意識になってしまっていた。
登山をした後に食べるご飯は、いつもよりも十倍も美味い。だから登山をした後は、美味しいものをたくさん食べ、大満足な一日にしたい。そんな風に思っていたが、しかし今はそんな贅沢は許されないような状況なのである。
それがわかっていない自分は甘くて、愚かで、アホで、どうしもようもない。そんなに無闇にお金を使っている自分は、愚か極まりないし、そもそもその愚かさは致命的なものであり、それが命取りにも繋がりかねない。その愚かさが、自分の人生を台無しにしてしまう。そのような、決して看過してはいけないような、重大な愚かさであるようにも思えてくる。
つまり平たく言えば、「登山なんかしてる場合じゃねえだろ、このボケ」という叱咤の声が、自分の心の奥から、届いて来てしまうのである。そしてその叱咤は、おそらく正しい指摘なのだろう。
確かに最近は普段は節約して、そして登山の日は豪遊する。そのようなケースが多いような気がする。登山をした後は何を食べてもいつもよりも十倍も美味いのだから、だから確かに登山の日は、美味いものをたくさん食べる。そしてそれを、私は自らに許していた。今日は登山の日だから、豪遊オッケー。そんなふうに思っていた。
一体登山とはなんなのかという、根本的な話にもなってくる。登山は娯楽なのか。快楽なのか。
登山は快楽である。娯楽である。だから登山の日は、美味しいものをたくさん食べていい。なぜなら登山は、娯楽だから。登山とは楽しいものだから。そのような認識が、私の「登山」の認識である。
まあそれはいいとして、とにかく宮ノ平駅まで電車で移動して、そして赤ぼっこの登山口まで歩いた。そこから山道に入っていく。山道といっても、歩きやすい道のりが続く。歩きやすく、緑も豊かな道のりである。
その静かな道のりを歩くことは、とても心地よい。適度に坂道もあり、しだいに汗もかいてくる。
そのように登っていくと、金網につきあたる。そこを右に、金網づたいに歩いていく。そしてしばし歩くと、三叉ほどの分岐点に出る。そこで、折れ曲がった右の道を、登っていく。ここから赤ぼっこまで、もうすぐだという認識だが、意外と距離がある。まだまだ歩き、そして急な階段道が出てくる。階段は、丸太と土の階段である。そこを登っていく。それを登り切ったところで、「赤ぼっこまで0・1キロ」という内容の道標が出てくる。
そこからは少し歩くだけで、とうとう赤ぼっこに到着である。無人。この日の赤ぼっこは、私の貸切状態である。私は赤ぼっこの解説板を、いまさらだがスマホで撮影した。
解説板の内容は、以下のようなものである。
===
赤ぼっこ
一九二三年(大正十二年)九月一日に起きた関東大震災の際、この付近の表土が崩れ落ち、赤土の露出した山となったそうです。そのころから地元ではこの付近を「赤ぼっこ」と呼ぶようになりました。和田町自治会では、和田町森林組合の協力を得て、二〇〇八年(平成二十年)に東京都の「花粉の少ない森づくり運動」の一環として杉の木を伐採し山桜を植樹、二〇一五年(平成二十七年)にはソメイヨシノ、ゲンカイツツジを、二〇二〇年(令和二年)にはムラサキツツジ・百二十本を植栽、令和四年三月には青梅市観光協会などの支援を受けて「眺望案内板」を作成・設置するなど多くの方々のご協力によりハイキングの休憩スポットとして整備、管理を行っています。
二〇二二年(令和四年)三月
===
この文章の中にある「眺望案内板」というものも二つあるのだけど、それもスマホで撮影しておく。
さて、赤ぼっこからの眺望は、相変わらず素晴らしい。今日は曇り空、ときどき小雨という天気の状態で、平日であり、すでに時刻も14時30分ごろになっていたためか、山頂には誰もいなかった。
そこにある二つのベンチのうちの一つに座り、風景を眺めながら、まずは水道水を飲んだ。それから、家からもってきた、糖しぼり大根弁当を、さっそく食べ始めた。
米は少しだけ、アリさんたちのために、地面に落としてやった。さあアリたち、一緒にメシを食おうではないかとばかりに、糖しぼり大根弁当を割り箸で頬張る。ごはんに糖しぼり大根を載せただけのシンプルな弁当だが、実に美味い。
しかしこの日は天気があまりよくないせいか、地面に落としてあげたゴハンには、いつまでたってもアリがよりつかない。なんだよせっかく、米を落としてあげたのにと思い、がっかりしていたら、よく見ると、非常に小さなアリが、米に近寄ってきた。その後、巨大なアリも姿を表したが、米には見向きもせず、どこかに行ってしまう。
なぜなのだろう。コンビニで買ったおにぎりの米なら、すぐにアリたちが群がってくるのに、私が家で炊いた米に、何か文句でもあるのだろうか。「わいの米が食えねえっちゅーんかい!」と、怒鳴ってやりたくなる。せっかく米を恵んであげたのに。
まあ場所にもよるのかもしれないし、そもそも天気があまりよくない日は、あまりアリも出歩いてはいないようである。まあとにかくアリのことは気にせず、素晴らしい風景を眺めながら、美味しい弁当を食べるこの気分たるや、まさに贅沢で、格別なものである。
弁当を食い終わり、ふたたび水道水を飲んだ。そしてしばしのんびりして、赤ぼっこの標柱につけられたノートケース、その中の「トトロ」宛てのノートを取り出して、ぱらぱらと眺めてみる。なんという遊び心か、ノートケースには「住所:赤ぼっこ」「宛先:トトロ」などと書いてある。そして、トトロの中に出てくる、「まっくろくろすけ」のイラストも、目にした。
そのノートをぱらぱらとめくってみる。「山頂には誰もいません。とても良い場所で、一人で考え事をするにはもってこいの場所です。コロナに負けず、私のお店を、守りつづけます!!!」とか、「○○山岳部参上! ベリーグットなこの場所で、とっても気分は最高です!」とか、その他、外国語のメッセージなんかも、目にした。この場所に今までたくさんの人が来て、みんなノリノリで、思い思い、トトロ宛てのノートに書き込んでいるようだ。
赤ぼっこと「トトロ」と、いったいどんな関係があるのか。なぜ、トトロなのか? そんな新たな疑問が生じてしまった。その疑問を胸に抱きながら、「さあ、そろそろ帰ろう!」と私はひとりごち、山頂を後にした。
さてそれから、松龍山の山頂付近まで歩く。基本平坦な道のりである。縦走といってよいであろう。要害山の山頂も、経由する。その道のりは、左右から草が伸びた狭い道もあり、いかにも山道という感じで、いかにも登山気分を満喫できる道のりであった。
そして途中、巨大なキノコを見つけた。巨大なしめじのような見た目である。いや、しめじのような色をした、巨大な椎茸というような見た目である。しかしおそらく、これは毒キノコだろうと思う。そのキノコの傘の部分を少しちぎって裏を見てみると、裏は血液を思わせるような、禍々しいピンク色であった。
そしてキノコの傘をちぎった指先が、なんか少し、痺れたような感覚もあった。キノコの傘をちぎることにより、キノコ汁が、指に多少は付着したのだろう。そしてそのキノコ汁が、皮膚を通して、多少は体内に染み込んだのではないだろうか。そして、毒キノコ成分である、生体を痺れさせる現象に、見舞われたのではないだろうか。
こんなものを、食べてしまうと、胃の中から体を痺れさせ、とんでもないことになってしまうのではないだろうか。焼いても、煮ても、天ぷらにしても、きっと食えないシロモノだろう。
ネットで調べてみたが、おそらくそれは「ザラエノハラタケ」というキノコではないだろうか。やはり、有毒なキノコのようである。しかし以前は、食べられるキノコとされていたらしいのだが、胃腸系の軽い中毒を起こすことがあるとのことである。
「軽い中毒」くらいであれば、完全に食べられないものではないのかもしれない。天ぷらにすれば、食べられるものなのかもしれない。しかし実物をこの目で見た感想としては、これは到底食べる気にはなれない。いかにも毒がありそうだという印象ではあった。
しかし裏面のピンク色を見なければ、一見するとしめじのような姿でもあったので、食べられそうな感じでもあったが、やはりキノコは怖い。食べると死ぬようなキノコも多いようだし、食べられるキノコかどうか、その見極めは簡単ではないと思う。
食べられるキノコであれば、ぜひ家に持って帰って、焼いてみたり、味噌汁に入れてみたりして、食べてみたいところである。松茸とか生えてたら、とても嬉しい。おそらく私は、まだ松茸は、人生で一度も食べたことがないと思われる。松茸は、香りも良いらしいので、松茸を見かけたら、すぐにそうとわかるのではないか。しかし松茸は、そう簡単に見つかるものではないのだろう。
松龍山の山頂付近に到着し、そのまま下っていく。この道を下っていくと、やがて民家が並ぶ道に出る。
その道のりで以前、犬に吠えられたことがある。だからその道のりに対して、苦手意識がある。しかしその犬が吠える場所は、どこなのか。どこの民家で犬が吠えるのか。今回は、それをしっかり見極める。それがまず、一つのミッションである。
下ってゆき、民家が並ぶ道に出た。すると案の定、犬に吠えられた。しかしよくよく聞いてみると、その犬の吠え方、別にそれほど、怖くもない。私はしばし、吠える犬を眺め、「うん、この程度なら、別に怖いものではない」と確認した上で、別にこの道に対して、苦手意識を持つほどのものではなかったと、それをまず、記憶に止めた。つまり今回のコースは、お散歩登山コースとして、充分に快適なコースであると、見なしても良さそうだ。
下りの登山道が終わり、民家が並ぶ道のりをへて、普通の車道に出る。ここからは、お馴染みの道のりである。もう迷うことはない。
この道を歩くのであれば、もう地図も、見る必要はない。皮膚感覚として、道を熟知することができた。自信を持って、そう言える。
しばし歩き、和田橋まで戻ってくる。再び和田橋を渡る。下を見下ろすと、その高度感に、めまいがする。ここから落ちたら、確実に即死だろう。橋の下を覗き込むと、足元が震えてしまう。
和田橋を渡り、宮ノ平駅に戻る。ヤフー路線でチェックすると、待ち時間は七分程度で、すぐに電車が来るようだ。
駅に到着して、駅前のトイレで排泄を済ませ、水道水で顔を洗い、タオルで顔をぬぐう。さっぱりした。今回も良い運動になったという満足感に、包まれる。
金は一円も使うつもりはない。水分が欲しければ、持参した水道水を飲むだけである。
宮ノ平駅で電車に乗り、最寄り駅まで戻ってくる。そこからどこにもよらず、まっすぐに家に帰る。
そして家に買ってきて、先日作っておいた茹で卵四つを食べる。それから少し漫画を読んでから、今度は、長ネギ入りの、納豆ごはんを食べ、さらに健康のため、生ニンジンを一本食べる。そして私は満腹した。
と、いうわけで、この日の登山では電車賃以外、一円も使わなかった。スイカにはすでに1144円入っていたので、スイカへの入金も、不要であった。つまり、所持金三千円で登山に出かけ、家に帰ってきたときも、以前として、所持金は三千円のままだったということだ。それはそうだ。一円も使わなかったのだから。
今回の登山で、私の中で「登山」という概念が、少し変化した。登山とは、娯楽であり、欲望であり、快楽であり、贅沢である。だから登山の日は、財布の紐を緩めても良い。登山をして、美味しいものをたくさん食べ、大きな幸福感を味わう。それが登山というものだ。それが私の、「登山」というものの、認識であった。
しかし今回のように、一円も金を使わない登山というのも、とても素晴らしいと感じた。今は無職無収入なので、登山に行ってる場合ではない、そんな贅沢はできない、そのような考えは、間違いだ。節約生活をキープした上で、登山に行くことは可能である。
いやむしろ、今回のような一円も使わない登山をすることで、節約マインドを向上させることもできる。つまり無駄使いをしてしまったり、贅沢をしてしまった後、財布の紐を締め直したいと思った時には、今回のように一円も使わない登山をすればいい。それにより、ぎゅっと心が引き締まる。それだけでなく、自然に触れ、たっぷり汗を書くことで、健康状態も改善できる。
登山は決して贅沢ではなく、快楽ではない。いや、そういう登山もあるだろうが、それとは真逆の登山もまた、あるのである。
赤ぼっこ登山の場合は、幸い家から近いので、電車賃は往復336円で済む。そしてその赤ぼっこ登山の一日は、出費を336円だけにするのであれば、それは立派な、節約の一日と言える。
三千円とか、四千円とか、五千円とかを使ってしまい、気持ちが緩んでしまい、精神がぶったるんでしまった時には、今回のような一円も使わない登山をして、その日一日は、336円だけの出費で済ませてしまう。そのようにすることで、またぎゅっと心が引き締まる。それにより、節約マインドを高めることができる。
そのような新しい登山の形を発見できたことは、とても有意義なことであったように思っている。