輪廻転生
投稿日
2024/09/17
最近、三島由紀夫の「豊饒の海」を読んでいる。
輪廻転生の物語である。
彼は輪廻転生を信じていない。
そんなこと、ある訳がないと思っている。
死んだ後のことなんて、どうなるか、誰にも分かる訳がない。
マヌ法典というものに、輪廻転生のことが、書かれているらしい。
インドでは、輪廻転生は、当たり前にあることとして、考えられているらしい。
輪廻転生する、それぞれの人間は、「阿頼耶識」を、保持している。
阿頼耶識とは、「個人存在の根本にある、通常は意識されることのない識」、である。
つまり、もし輪廻転生があると仮定した場合、彼の前世と、彼は、同じ「阿頼耶識」を保持している。
前世の記憶は、無い。
しかし、同じ阿頼耶識を保持している。
人間には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の、8つの識がある。
一番深いのが、阿頼耶識。
人間の五感とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つのことである。
これは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識に、該当するのだろう。
意識は、意識だろう。
では、末那識、とは?
末那識とは、八識のうち七番目で阿頼耶識を所縁とする識であるという。
また、眼、耳、鼻、舌、身、意という六つの識の背後で働く自我意識のこと。
末那識が、すでに、わけのわからない織である。
さらにもう、阿頼耶識となると、一段と訳がわからない。
そもそも彼は、そんなもの、信じていない。
しかし、もし阿頼耶識というものが、本当にあるなら、「個人存在の根本にある、通常は意識されることのない識」というものが、本当にあるなら、そして、それによって、人間が動いているなら、そして、それは、輪廻転生で、共通して持っているものだったら、
だったらもう人間は、自分の意思で生きているようで、実は、全然、自分の意思では生きていなくて、阿頼耶識の命じるままに、生きているということか。
だったら、すべての自分の行動は、すべて自分が決めて動いているのではなく、すべて、なるようになっている、すべて、動かされている、まさに、運命的な感じか。
自分の運命に、人は逆らうことができないって話か。
自分を知るということは、簡単なことのように思えるが、実は、極めて難しいのか。
自分の阿頼耶識を知らねば、自分を知ったことにはならないのか。