野獣が野獣であるために 一
投稿日
2024/10/08
2024年10月8日。火曜日。13時22分。星乃珈琲店。
今日は雨が降っている。一気に寒くなった。いつもシャツ一枚だったが今日は上のジャージを着ている。
モカブレンドを注文した。580円である。
先ほどファミリーマートでスパイシーチキンを四つ購入して歩きながら食べた。
野獣は今日はずいぶん金を使っている。まるで野獣のように荒々しく金を使っている。
これからブックオフに行って漫画を立ち読みしたりゲオでDVDのパッケージを見たりするのだろう。そんな風に野獣の一日は過ぎていく。
(しかしこれだけ寒いともう青梅丘陵のツクツクボウシは全滅したのではないか?)
今日は青梅丘陵には行けなかった。
野獣はイライラしていたが何よりも冷静さが大事であった。
(冷静なしで生きてる奴が一人でもいるか?)
野獣はそう思う。野獣たるもの荒々しい野生と蛇のような冷静さを両立させなければいけない。それが強い動物というものだ。強くないと現代社会を生き抜くことはできない。
「ああしかし手下が欲しいなあ」
野獣はそう呟いた。いやしくも野獣たるもの「友だちが欲しい」などとは口が裂けても言ってはいけない。それはあまりにも軟弱な言葉である。その言葉はあまりにも気の弱さの証左である。野獣たるもの友だちを求めてはいけない。野獣なら野獣らしく手下を求めなければいけない。織田信長にとっての家臣、ヒトラーにとっての親衛隊のような、自らのイエスマン、自分の命令に絶対服従する手下が欲しいなあと野獣は思う。しかしみんな利己主義である。手下も手下であることにメリットがあると思うから手下をする。そんなメリットを野獣は提供できない。だから野獣は手下を持てない。
しかし野獣たるものどこまでもエゴイスト――自己中心的であらねばならない。野獣は悪人であらねばならない。決して善人ぶってはいけない。弱い人間こそ善人ぶる。誠実ぶって身を守ろうとする。弱気になると人は「善」に逃げる。しかし野獣たるものどこまでも嫌われ者であり続けなければいけない。人からの非難を轟々と浴びせられる不良でなければいけない。
星乃珈琲店の店員がモカブレンドを持ってきた。
(なんて美しい漆黒の水面だろう)
野獣は氷室京介のように気取ってそれに口をつけた。
野獣が野獣であるために青梅丘陵をハイキングしなけばならない。
しかし今日はそれをお休みしてしまっている。
雨の日のハイキングほど最高に素晴らしいものはないのに。それはカラオケボックスである。傘を差しながら無人の自然道を歩きカモシカに歌声を聞かす。尾崎豊とか氷室京介とかシャ乱Qとか吉川晃司とか。