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吉田山の山頂には人間修行開眼が落ちている
投稿日
2020/12/20
こんにちは。
登山好きな47才のフリーランスプログラマです。
あと、登山サークルを運営しています。
プログラミングの仕事のほうは、X社(仮名)から依頼してもらってます。
X社にはいつも大変お世話になっています。
そのX社に依頼されている仕事が、現在ありません。
だから今、手が空いています。
ヒマしてます。
というわけで、今日も登山に行くことにしました。
昨日も登山に行きました。
本当は、あまり登山に行く気がしません。
今日も朝起きて、ぐずぐずしていました。
登山に行こうかどうか、迷っていました。
でも、特にやることがありません。
登山に行かない場合、DVDを見るとか、読書をするとか、そのくらいしかやることがありません。
その場合、ずっと家で過ごすような一日になってしまいます。
それもイヤだなと思い、外に出たいなと思って、仕方がないので登山に行くことにしました。
今日は朝起きたとき、すでに9時でした。
登山に行くには遅すぎる起床時間です。
もっと早く起きないと、行ける山が限られてしまいます。
さてさて、どこにいくか。
山と高原地図を見ながら、登る山を検討します。
秩父の吉田山に登りたいと思っていましたが、おそく起きてしまったので、今からだとちょっときついかもしれません。
もっと楽な登山のほうが良さそうです。
どうしようかなー。
どこに行こうかなーと、迷います。
すでに登山の格好をしています。
どっかしら、登る山を決めなければいけません。
で、結局、やっぱ吉田山かなと思いました。
それでも途中で気が変わるかもしれないので、地図の方は秩父のものだけでなく、高尾山と奥多摩の地図も持っていくことにしました。
吉田山の場合、登山ルートは破線ルートです。
地図上で破線で書かれているルートは、道が悪いという意味です。
そういう意味でも、破線のルートを歩くのあれば多少はリスクもあるわけだし、なるべく早く出発したいところでした。
だから今日みたいに9時に起きてしまった場合は、もっと楽で安全な山に登った方が良いようにも思いました。
でももう吉田山に登るつもりになっていたし、今日は吉田山でいいかと思いました。
ヘッドライトも持っていくわけだし、もし仮に暗くなってしまったとしても、特に問題ないといえば問題ありません。
それに、吉田山に登った後、場合によってはピストンで帰ってくれば、安全性は増しますし、登山の時間も短くなりそうです。
まあ臨機応変にやっていけば問題ないだろうと思い、今日はやっぱり吉田山に登ることにしました。
さて、登山の支度です。
ザックにザックカバー、レインコート、ヘッドライト、ゼリー飲料、お茶、ビニール袋、ポケットティッシュ、軍手、地図、コンパスを入れました。
吉田山の標高は445メートルのようですし、チェーンスパイクは必要ないでしょう。
悪い道とされている破線の道のりのため、一応軍手は持っていきました。
四足歩行でえんえんとよじのぼっていかなければいけないような道もあるかもしれません。
だからそれに備えて念のため軍手を持っていったほうが安心です。
さてそれらの準備を済ませて、外出しました。
最寄り駅で電車に乗り、まずは拝島駅まで移動しました。
拝島駅のコンビニで「カマンベールチーズクリームパン」というパンを二つ買いました。
このパンはとても食べやすいです。
食欲がなくてもこれなら食べられるため、登山の前にはよく買います。
賞味期限が12月22日なので、今日食べなくても、明日でも明後日も食べることができます。
拝島駅で電車に乗り、今度は東飯能駅に移動しました。
そして駅の前のコンビニで、先日買ったメロンパンを買おうと思い、探してみたのですが、売ってませんでした。
ファミリーマートで売られている「もちっと食感の北海道メロンパン」というやつです。
これもとても食べやすく、食欲が無くても美味しく食べられます。
だからそれを買いたかったのですが、売ってませんでした。
そのかわりに、良さそうなパンを三つ買いました。
「ソフトなチーズクリームパン」「濃厚ミルクフランス」「焦がしバターのクロワッサン」という名前の三つのパンです。
それぞれ賞味期限は12月23日なので、今日中に食べなくても大丈夫です。
最近よく登山に行くし、今日食べなければ次回に食べればよいのです。
さて、東飯能駅から電車に乗り、吾野駅まで移動しました。
トイレのほうは、東飯能駅で済ませました。
吾野駅のトイレでも、念のためまたトイレに行っておきました。
さて、では登山口まで歩きます。
吾野駅、来たことがある駅です。
過去の淡い記憶がよみがえります。
サークル登山で来ました。
みんなで楽しくワイワイ登山しました。
その登山の終着駅が、吾野駅でした。
地図と地図アプリを見ながら、慎重に進みます。
あー、来たことある道だなーと思います。
伊豆ヶ岳の登って、子の権現まで歩き、そこから吾野駅まで歩いたのです。
あの時の登山、楽しかったなあ。
しかしあのメンバーとは、すっかり疎遠です。
たしか男性二人、女性二人で登山したと記憶しています。
いや、男性三人だったかもしれません。
その人たちと歩いた道を、今回は逆側に歩きます。
しかし登山サークルのほうも、今までたくさんの人が来ました。
良い人もいれば、あまり良くない人もいました。
楽しいこともたくさんあったのですが、不愉快なことも多少はありました。
そのことについてあれこれと思い出しながら、歩きました。
そしていつしかぶちぶちと人の悪口ばかりを呟きながら、歩いていました。
登山のとき心が解放されるのでしょうか、普段は口にしないような毒々しい人の悪口などが、次から次へと口から出てきてしまうことがあります。
まさに今日はそんな感じでした。
ぶちぶちぶちぶち人の悪口ばかりを言いながら歩いていました。
そんな風に歩き続けていると、前のほうに犬をつれた男性が現れました。
そしてその犬がなぜか私に向かって、ひどく吠えるのです。
すごい勢いで、えんえん吠えられました。
飼い主の男性も困ってしまったようで、「ほらほら、大丈夫だから」などといって、犬をなだめています。
小さな犬です。
その犬が、親の仇にあったような剣幕で、激しく私に向かって吠え続けるのです。
それでさすがに私もイヤな気分になりました。
なんでそんなに吠えられなければいけないのか。
その飼い主の男性もニヤニヤするばかりで、私に対して謝りの言葉もありません。
「ほらほら、大丈夫だから」と、犬に語りかけるばかりです。
通常、おばさんとかだったら、「すみませーん、ほんとにこの子は。こら、吠えるのをやめなさい!」、くらいのことは言ってくれるはずです。
しかしその男性はニヤニヤするばかりで、一つも私に謝ってきません。
そんな態度なので私のほうから、「この犬、うるさいなあ。とても迷惑な犬ですね。殺処分にしてしまったほうがいいですよ」などと、毒々しいセリフを吐きたくもなります。
そうすればその男性も、少しは恐縮するでしょう。
でもそんなセリフ、口が裂けても言いません。
そんな感じの悪いことを言ってしまうと、大変です。
その男性からひどく嫌われてしまうに違いありません。
だから私は犬にひどく吠えられながらも、その男性に「こんにちは」と挨拶したのですが、挨拶は返ってきませんでした。
ただニヤニヤしてるだけです。
とりあえず私は、速やかにその場から離れました。
私が遠く離れると、さすがに犬は吠えるのをやめました。
くそー、なんて不愉快な犬なんだ。
犬だけでなく、あの飼い主の態度も、一体あれはなんなんだ。
実に不愉快だ。
ぷんぷん!
と、憤りながら歩きます。
そんな風にしばし歩き続け、諏訪神社という神社を通ったあと、秩父御嶽神社という神社に到着しました。
東郷神社という神社もあるようです。
その秩父御嶽神社という神社は、かなり立派な神社でした。
入口のところには巨大な赤い下駄靴の像があります。
鳥居なんかもとても立派です。
地図アプリを見ると、どうやら今回はその神社の中を通っていく必要があるようでした。
それでその神社の中に入っていきます。
すると以下のように書かれた看板を見かけました。
「御登山ごくろうさまです 信仰する者は皆友達お互いに挨拶 次に登山参拝する人の為にお互いにキレイにしましょう 自分でだしたゴミ(空き缶その他)はお持帰り下さい」
信仰する者は皆友達かあ、なるほどー、良いこと言うなあ。
などと思いながら歩きます。
神社の中を歩きます。
狛犬とか、鳥居とか、鼓楼とか、出てきます。
しばし歩くと、東郷元帥銅像という、銅像がありました。
東郷元帥は、訊いたことがあります。
第二次世界大戦の大将だった人でしょうか。
その人の像があります。
その像の近くには看板があり、そこにその像と、東郷元帥本人の写真も掲載されていました。
それを見たのですが、東郷元帥と、銅像が、そっくりでした。
本人をそのまま銅像にしたような感じです。
なるほど、東郷元帥って、こういう顔をしているんだなーと思いました。
この秩父御嶽神社なのですが、実に味のある、かなり立派な神社です。
おまけに、モミジの落ち葉が大量に落ちているところを見ると、ここは相当に紅葉が見事な所のようです。
11月の下旬くらいにここに来てたら、すごく豪華な紅葉の風景が見れたと思います。
ここは穴場です。
知る人ぞ知る、紅葉スポットであると言えそうです。
神社の中には巨大な木も何本か生えていました。
そして本殿に向けての、368段の長い階段があります。
看板の説明書きを見ると、その階段を頑張って最後まで登れば、ご利益があるみたいでした。
私はしっかりその階段を上りました。
最後のほうには、「あと50段です。頑張ってください」みたいな看板も、あったと記憶しています。
一番上には鳥居が立っています。
その鳥居の向こうが、日の光で光っています。
そこを登りきると、神社の本殿に到着しました。
とても立派な建物です。
しかし、道はここで終わりです。
でも地図や地図アプリを見ると、この先にも道があるはずです。
今は道がなくなってしまったのだろうか・・・
もしそうだったら、吉田山はあきらめて、もう帰るしかありません。
もう結構疲れました。
この秩父御嶽神社に来れただけで、充分です。
もう帰ってもいいと思います。
でも一応、その先の道を探しました。
本殿の左側を行ってみたのですが、行き止まりでした。
やっぱ道はなくなっているようだ。
もう帰ろうかな。
などと考えながら、本殿の右側を行ってみました。
すると、その先に道がありました。
ここか。
そう思って、私はその道を進みました。
しかしだるいです。
疲れました。
そもそもなぜ、こんなに連日、登山をしなければいけないのか。
今日で三日連続、登山しています。
だるいです。
きついです。
なんでこう毎日登山しているのだろう。
なぜなのか。
なぜ、山に登るのか?
それを考えます。
訓練だ。
そう思いました。
訓練、訓練。
そう自らに、言い聞かせました。
そしてそれからの道を歩くとき、「訓練、訓練」が、口癖になりました。
寒い。
帰りたい。
いや、訓練、訓練。
訓練のつもりで歩き続けます。
もうすでに、破線の道に入っています。
悪い道とされている、破線の道です。
誰も人が歩かない、破線の道です。
でも、神社の後ろの道のりは、とても神聖な雰囲気であると感じました。
聖なるオーラを感じました。
そのあたりは破線ルートではあるのですが、広々としていて、とても歩きやすい道でした。
そして、聖なるオーラが漂っている感じで、とても清浄な空気であると感じました。
その道を歩いていると、身も心も清められるような気がしました。
そしていつしか私は、「訓練、訓練」のかわりに、「修行」という言葉を使い始めました。
登山とは、修行である。
なんの修行か。
人間修行である。
そんな風に思い、そしてその考えが、とても気に入りました。
そうか、登山って、修行なんだ。
それも人間修行なのだ。
修行、修行、そうつぶやきながら、歩きます。
修行のわりには、楽です。
そもそも修行なら、もっと早起きしないといけません。
修行なのに、9時に起きるとか、だらけすぎです。
修行だったら、暗いうちから起床するべきです。
まあいいや、そこらへんは。
適当です。
しばしその、聖なるオーラに包まれた道を歩きます。
すると、御岳山の山頂に到着しました。
コナラの木だと思うのですが、その木に板がつけられていて、その板に「御岳山 370M」と書かれています。
山頂は木に囲まれていて、眺望はありません。
先に進みます。
登山は修行。
その考えが、気に入りました。
登山のときは、善人として、登山する。
人と接するときも、善人として、接する。
人に会ったら、善人として、感じよく挨拶する。
人と話すときは、善人として、人と会話する。
善人として振る舞う。
それが登山なのだ。
そんな考えに夢中になります。
はっきりいって、私は善人ではありません。
かといって、悪人でもありません。
その真ん中くらいの人間です。
そして私は欠点が多くて、汚いところとか醜いところとか、たくさんあります。
心も狭いです。
すぐに腹を立てます。
愚かです。
ダメなところがたくさんある人間です。
しかし登山では、善人のようにふるまう。
それが登山であり、それが人間修行というものだ。
そんな風に思うのです。
普段は、感じが悪くても構わない。
ギスギスした人間でも、不愛想な人間でも構わない。
しかし登山をしている間は、感じが良くて、優しくて、愛に満ち溢れた、善人になったつもりで、善人がするように行動して、善人がしゃべるようにしゃべる。
善人が発想するように発想する。
そんな風に身も心も善人になりきって、愛の精神にて人と接する。
それが登山なのだ。
それが人間修行というものなのだ。
山に入って登山をするということは、善人を演じるということなのだ。
そんな風に思うのです。
犬に吠えられようが、笑って気にしない。
挨拶をして返事が返ってこなくても、笑って気にしない。
いつも相手の気持ちを第一に考えて、限りなく優しく、愛情たっぷり、人と接する。
いつも常に笑顔。
そんなイメージを、考えます。
理想的な善人の姿。
不審者だと思われて、職務質問のような口調であれこれ質問されても、感じ良く答えてあげる。
相手の無礼も、相手の悪も、笑顔で許す。
これが善人というものです。
善人を演じることは、善人じゃなくてもできるのです。
そして善人を演じることは、とても気分が良いことなのです。
すべてのことについて、善人のように考える。
心が広く、心が優しい、善人のように考える。
そういう場が、登山にはある。
大自然が、人をそうさせる。
人をそう導く。
そんなことをあれこれ考えながら進みます。
しばらく歩くと、吉田山の山頂に到着しました。
山頂は木に囲まれていて、眺望はありません。
吉田山の山頂をしっかり踏むことができました。
満足です。
後は下山するだけです。
善人ならボランティアをしたりとか、したほうがいいかもしれません。
私は今年、コロナの影響で収入が途絶え、このままでホームレスになってしまうかもしれないと思って、とても怯えました。
そして、無事収入が確保できたら、ホームレス支援のボランティアをしようと思いました。
でも実際に収入が確保できたら、その気持ちもどこかに消えました。
でも困っている人たちを支援するためのボランティアとか、介護とかのボランティアとか、そういうことをすることこそが、人間修行なのかもしれません。
困っている人、苦しんでいる人を支援するために骨を折ることこそが、人間修行かもしれない。
そしてそんな人間修行をすることで、人から善人だと思われ、それで人から愛されるのです。
それで愛される資格を得るのです。
そして人から愛され、幸福になることができるのです。
そうかなるほど、そういうことか。
そういうメカニズムだったのか。
ただそれでも、ボランティアはなかなかハードルが高いです。
私は基本的には、自分が良ければそれで良い人間です。
エゴイストですし、自己中心的で、心の狭い人間です。
でもまあ、とりあえず、ボランティアについて少し興味を持った。
今の段階ではそれだけで充分だと思います。
世の中には、心ある人と、心無い人、その二パターンの人が、確実に存在します。
そして確かに、その心ある人が、幸福をつかんでいるような気もします。
心無い人は、幸福をつかめていない気がします。
その心とはなんなのか。
あの人とあの人とあの人は、けっこう心あるなと思う人がいます。
まず、優しい。
人の相談に親身になれる。
人を助ける。
面倒くさいことをお願いされても、それを引き受ける。
そういう事ができる人は、心ある人だと思います。
できない人がほとんどです。
私もできない方だと思います。
面倒くさいこと言われると、すぐに逃げる。
そんなのいちいち相手にしない。
そういう人がほとんどだと思います。
そういう人が、90パーセント以上だと思います。
しかし心ある人というのは、確実に存在しているのです。
そして神仏はよく見ているもので、そういう人たちは、何かしらの幸福をつかみやすいような気もします。
もちろん、それだけで幸福になるという、簡単な話ではないと思います。
しかし心あるか、心ないか、それは大きな違いです。
そして私は完全に、心無い人間である。
それははっきり自覚しています。
登山を人間修行と思って頑張れば、何か良いことがあるのだろうか。
それはわかりません。
でも少なくとも、登山をするときは、人に感じよく接する、愛想よく接する、そのようにしていくのは、面白いかもしれません。
でも山小屋とかで見知らぬ人と一緒になって、ずっと感じよく接するのは、あまりにもきつすぎます。
だからやっぱり山小屋には止まらず、テント泊がいいかもしれない。
短い時間だけだったら、感じ良く、善人を演じて、人と接することができると思います。
しかし長時間はつらいと思います。
世の中には、困っている人を支援するために、ボランティアとかしている人もたくさんいます。
私もそういうボランティア精神を持つべきかもしれません。
それを持つことで、何かいいことあるでしょうか。
もしあるのであれば、そういうボランティア精神を持つことも、考えたほうがいいかもしれません。
なにかいいことあるのだろうか。
ないのだろうか。
さて、登山を進めます。
あとは下山です。
吉田山、とても渋い山です。
秩父御嶽神社もとても良いところですし、このルートは魅力的なルートです。
実に良いルートです。
吉田山から下山の道のりも、破線の道のりではありますが、特に危険なところはありません。
いたって普通の道です。
歩きやすい道だという印象を持ちました。
吉田山の山頂からどんどん下っていき、地図上の実線の道のりに出ました。
後はそこから、西吾野駅に向かって、下っていくだけです。
心穏やかに、善人を演じながら、下ります。
善人のように、静かに、丁寧に、道を下ります。
しばらくずっと下り続けると、他の道から人が出てきました。
げ、人だ。
と、思いました。
しかしここは善人の腕の見せ所です。
とびっきり感じ良く挨拶をしてあげるチャンスです。
しかしなんとなく、挨拶をしそびれました。
その人は墓みたいなところに立ち寄り、私はその人を通り過ぎました。
さて、ここまで来ると、駅まですぐ近くです。
ヤフー路線で電車の時刻を調べると、24分後に電車が来るようです。
そしてグーグルマップで駅までの徒歩の時間を調べてみると、18分のようでした。
よし、間に合う。
それを確認して、私は早足で駅に向かいます。
でも途中、巨大な樹木を見かけて、それらは写真に撮っておきました。
なんだこの木は!
と思って、急いでいるにも関わらず、写真を撮らずにはいられませんでした。
クスノキだったのかもしれません。
もう一つの巨木は、なんの木か全然わかりません。
さてとにかく、まっすぐ駅に向かいます。
そして無事、電車出発の6分前くらいに駅に到着できました。
駅のトイレで小用を足しました。
そのとき、トイレの臭いが強烈でした。
トイレには誰か入っています。
汚物を流しながらトイレすればこんなに臭いは出ないはずです。
それをしないものだから、トイレ内は強烈な臭いでした。
私はその臭いの中、急いで小用を済ませ、トイレを後にしました。
そしてホームで電車に乗りました。
電車の中では、読売新聞を読んでいました。
そして、東飯能駅と拝島駅で乗り換えて、最寄り駅まで帰ってきました。
それから自宅の近くのスーパーによって、鶏のから揚げと、シャケの切り身を三つ、買いました。
それから自宅の近くのファミリーマートによりました。
そこには探していたお気に入りのパンの、「もちっと食感の北海道メロンパン」が売られていました。
賞味期限は12月22日です。
それを二つ買いました。
明日か明後日、食べるつもりです。
これで手元に、お気に入りのパンが、いくつか確保できています。
やっぱり登山に行くときは、食べるものがたくさんあると安心です。
万が一遭難ということになっても、食べ物が充分にあれば、だいぶ心強いです。
道に迷ったりして、また元来た道を戻らないといけなかったりして、暗くなる前に下山できないことも、充分ありえます。
でも今回は、13時31分の帰りの電車に乗れたので、すぐに終わった登山でした。
さて、家に帰ってきて、鶏のから揚げを食べ、焼いたシャケの切り身を食べ、あとは昨日作ったスープもゴハンにかけて食べました。
スープには、今日は大根おろしもたっぷり加えました。
大根とニンニクと牛スジ肉と鶏砂肝のスープです。
味付けは、つゆ、しょうゆ、塩です。
あとは、ニンニクもたっぷり入れているので、ニンニクの味もよく効いてます。
そんな感じで、ゴハンを食べました。
とても美味しくゴハンを食べました。
現在、酒とコーヒーは断ってます。
禁欲してます。
しかし食べるものに関しては、一切禁欲していません。
食べたいものを、食べたいだけ、食べてます。
修行というのであれば、こんなに食べまくっているのは適切ではありませんし、朝も9時に起きるのは遅すぎです。
でもまあ、ゆるめの修行ということで、これでもいいかなと思います。
さて、今回の登山は、そんな感じでした。
明日は月曜日です。
きっとX社から仕事の依頼があるでしょう。
でも、今年ももうすぐ終わりです。
場合によってはまた明日も登山に行きたいような気もします。
まあ明日の朝の気分次第ですが、登山は人間修行にもなると思いますし、色々と考えるとことできますし、健康にも良いに違いないし、明日も気が向いたら登山に行こうかな、どうしようかな。
そのように思っています。