雲取山で遭難か、遭難以外か(2)
投稿日
2024/09/21
これは、事実をもとにした物語である。
42歳の或る阿呆が、登山初心者の分際で、身の程知らずにも、東京都で一番高い山、雲取山に、一人で登ろうとしていた。
季節は、秋だった。
彼は雨具を持たなかった。
だから雨が降った場合、ずぶ濡れになるしかなかった。
もちろん着替えは無い。
ザックカバーも無い。
雨が降れば、ザックの中は、すべて水浸しになるだろう。
地図もコンパスもヘッドライトも無い。
下調べも、一切していない。
山頂まで何時間かかるのかも、あまりよくわかっていない。
彼は、有資格者であった。
遭難者になるための、有資格者であった。
それでも彼は、その登山に、どのくらいの時間がかかるのか、多少のイメージは持っていた。
雲取山は、普通は、一泊二日で登る山だが、彼は、日帰りで登ろうとしていた。
そのため、彼の出発は、それなりに早かった。
彼は、適当であった。
(登山と下山で、十二時間くらい、かかるんだろうなあ。でも急げば、十時間くらいで、済むんじゃないかなあ)
そんな感じの意識であった。
そして、
(まあ、日帰りできなかった場合でも、テントと寝袋を持ってきたし、別に、なにも怖くないなあ)
とも、思っていた。
なにもかもが適当であった。
登って、下る。
下る向こうに、何があるのか、あまりよく分かっていない。
ぼんやりと、確か神社がある、くらいのことは、知っていたか?
いや、それも知ってはいなかった。
彼は、その向こうに、三峯神社があることも、わかっていなかった。
彼の感覚では、下山の向こうには、八王子みたいな大きな街が、普通にあるというイメージだった。
だから下山後は、近くの駅まで、歩くなり、バスなりで移動して、そして、その駅から、ゆうゆうと帰ってくればいい。
帰りには、四谷三丁目の、友人のラーメン屋に立ち寄ろうくらいに、気軽に思っていた。
その後、どんなことになるのかも知らずに……
彼は、鴨沢バス停から、雲取山に、登り始めていた。
彼の登山は、最初のうちは、順調であった。
堂所、七ッ石小屋、奥多摩小屋、と、順調に登っていく。
そして、あっさりと、標高二〇一七米の山頂にも、到着した。
そして、雲取山荘を経由して、三峯神社の方向に、彼は、下山をしていた。
そこで彼の、最初のつまづきがあった。
気づくと道が消えていたのである。
「あれ?」
後ろを振り返る。
しかし後ろにも、すでに道はなかった。
彼はそのとき、始めて、底知れぬ恐怖を覚えた。
巨大な山である。
そして誰もいない。
(この状況って……)
じわじわと、分かってくる。
戻りたくても、道がなくなっているから、どこに戻ればいいのか、わからない。
彼はパニックになっていた。
そして必死で、上へ上へと、道の無い傾斜を登っていった。
そのとき彼は、何も考えていなかった。
ただ必死に、登っていた。
それで登山道に戻れたのは、本当に、これは、たまたまであった。
彼は心底、ほっとした。
そして途端に、雲取山が、怖くなってきた。
山では、簡単に人が死ぬ……
彼はそれに気づいてしまった。
雲取山は、人を殺すに充分な山であった。
厳しい自然が残っていた。
人の目は、一部にしか、行き届いていない。
山の大部分は、人の管理から外れた、恐ろしい自然であった。
その後、彼は、ふたたび道を見失わないように、慎重に歩き始めていた。