雲取山で遭難か、遭難以外か(3)
投稿日
2024/09/22
42歳の、登山初心者の、独身の、或る阿呆が、身の程知らずにも、東京都で一番高い山――雲取山で、たった一人で、登山していた。
季節は、秋であった。
彼は、地図を持たなかった。
コンパスを持たなかった。
雨具を持たなかった。
ヘッドライトを持たなかった。
彼が持っていたのは、テントと寝袋と食料と水だけであった。
雲取山の登山の下調べも、ほとんどしていない。
「行けば、なんとかなるだろう」くらいに、気軽に、考えていた。
彼は、有資格者であった。
遭難者になるための、有資格者であった。
すでに彼は、雲取山の、軽い洗礼を受けていた。
登山道を歩いていていると、いきなり、道を失った。
道が、突然、消えた。
後ろを振り返っても、後ろにも、道はなかった。
そして彼はパニックになりながら、必死で、道なき斜面を、駆けのぼった。
なんとか、運良く、それで、登山道に出ることができた。
彼は、冷や汗をかいていた。
〝遭難〟〝死〟という言葉を、はじめて、意識していた。
しかし彼の試練は、これで終わりではなかった。
本当の試練は、これからであった。
まず、彼の認識は、完全に狂っていた。
彼は、〝山〟というものを、なにもわかっていなかった。
彼は、〝夜〟について、まるで理解していなかった。
夜は、6時か、7時くらいに、くると思っていた。
それに合わせて、彼は、登山していた。
しかし、山の夜は、早くやってくる。
それを彼は、わかっていなかった。
彼は、焦っていた。
午後3時を過ぎた時、すでに山は、夜になる準備をしていた。
雲取山の山頂をすぎて、三峯神社に向かって、下っていく、山道であった。
山は、みるみる夜になろうとしていた。
徐々にあたりは、暗くなっていった。
不気味な木々が、鬱蒼と、生い茂っていた。
そして、不気味な野生動物の声が、ときおり聞こえてきた。
姿は見せていないが、カモシカ、シカ、イノシシ、クマなどの、野生動物が、すぐ近くで、活動しているような、そんな気配が、ひしひしと感じられた。
そして木々も、怖かった。
沈黙の木々たちは、無言で、悪意を持って、なにかを企んでいるように思えた。
彼を殺すため、なにかを企んでいるように思えた。
彼を罠に嵌めようと、悪質に、狙っているように思えた。
そんな中、彼は必死で、歩き続けた。
疲れを忘れ、なんとか、夜になる前に登山を終わらせたいと思い、必死で、歩き続けていた。
彼は、照明器具を、なにも持っていなかった。
「お邪魔します。失礼します」
彼は泣き顔で、木々たちに、大きな声で、そう声をかけながら、歩いていた。
木々たちが、はっきり、意思を持っているように、感じられたのある。
「みなさまのお住まいにお邪魔させていただいております。大変ご迷惑をおかけしております」
そう声をかけながら、
「悪気はありません。すみません」
と、謝りながら、
「だから、どうか、僕に変なことをしないでください」
と、頼みながら、
怯えながら、泣き顔で、歩き続けていた。
しかしみるみる、道は、暗くなっていく。
彼は、白岩山、白岩小屋と、通り過ぎていた。
彼は、疲れを忘れ、矢のように、下山の道を、歩き続けていた。
とにかく、夜になってしまう前に、登山を、終わらせなければいけなかった。
しかし彼は、楽観的すぎたのだ。
結局、最後には、ぎりぎり、夜になる前に、下山できるだろうと、甘く、考えすぎてしまっていた。
そして運命の、4時30分であった。
突然、山道は、完全に、真っ暗になった。
目を閉じたのと、同じくらいに、完全に、真っ暗になった。
彼は、立ちどまった。
立ち止まらざるを得なかった。
なぜなら、もう、何も見えないからである。
そうなると、もうおしまいであった。
暗いともう、テントを立てることもできない。
テントも寝袋も、なんの役にも立たない。
必要であったのは、明かりであった。
彼はヘッドライトを、持ってくるべきであった。
「ああ、なんてことだ……」
三峯神社まで、あと2・5キロという道標は、すでに通り過ぎていた。
と、いうことは、彼は、霧藻ヶ峰も、すでに経過していたようだった。
道がみるみる暗くなる中、なんとか彼は、懸命に、矢のように、歩き続けていたのである。
しかし、あともう少しというところで、もう、一歩も進めない。
4時30分に、雲取山は、完全に、夜になってしまっていた。
彼は、崩れ落ちるように、その場で、座り込んでしまった。