雲取山で遭難か、遭難以外か(4)
投稿日
2024/09/23
42歳の登山初心者が、山を舐めていた。
身の程知らずにも、たった一人で、秋に、東京都で一番高い山――雲取山に、登っていた。
一泊二日ではないのだ。
日帰りなのだ。
本来、一泊二日で登る山である、雲取山を、日帰りで、登ろうとしていたのだ。
雨具を持たない。
地図を持たない。
コンパスを持たない。
ヘッドライトを持たない。
山小屋の予約もしていない。
完全に、山を舐めていた。
これ以上舐められないほどに、完全に、山を舐めていた。
それでも彼は、朝から歩き、雲取山の山頂に、到着した。
そして、三峯神社に向かって、下山した。
その下山のときに、彼は、道迷いをした。
しかし、運良く、登山道を見つけることができた。
その後も彼は、歩いていた。
矢のようなスピードで、下山していた。
しかし山は、みるみると夜になっていく。
そして彼は、真っ暗闇の中にいた。
そこで彼は、へたりこんでいた。
夜になる前に、彼の登山は、終わらなかった。
下山のゴールである、三峯神社には届かず、山中で、夜を迎えた。
完全に、真っ暗であった。
目を閉じているのと同じくらい、真っ暗であった。
「ぐうーっ……」
絶望的に、彼は呻いていた。
山の中で、真っ暗になり、もう、一歩も動けないのである。
彼は、その場で、へたり込んでしまっていた。
かくなる上は、朝になるまで、その場で、座っているしかなかった。
まだ、午後5時にも、なっていない。
雲取山は、4時30分で、すでに完全に夜になっていた。
それから朝まで、気の遠くなるような長い時間、彼は、その場で、座っているしかなかった。
しかし、それも、怖かった。
あたりには、野生動物のいる、濃厚な気配がした。
夜に、クマに襲われるかもしれなかった。
このまま無事に一夜を過ごせるとは、彼には、到底、思えなかった。
クマは、よほどの事がない限り、人間を襲ったりはしない。
そんな常識も、彼は、知らなかった。
クマは人間を見つけたら、すぐに襲ってくる、くらいの認識を、彼は、持っていた。
彼は、暗闇の中で、己のバカさ加減を、痛感していた。
これはもう、どこからどう見ても、遭難であった。
すでに、誰かに助けてもらわなければいけないような、悲惨な状況に、なっていた。
今にも、夜行性の野生動物から、襲われそうな気がした。
彼は、ブルブルと震えていた。
〝死〟は、間近にあるように感じられた。
しかし彼は、そこで、閃いたのであった。
スマートフォンを、懐中電灯に、できるのではないか?
もしかしたら、そんなアプリが、あるのではないか?
彼は、スマホの懐中電灯アプリを探してみた。
幸い、電波は届いていた。(電波が届いていなかったら、完全に終わっていた)
もう、三峯神社まで、あと2キロくらいのところまで、来ていたのだ。
彼は、スマートフォンの、懐中電灯のアプリを探してみた。
そして、それを、見つけることができた。
すぐに、インストールした。
「た、助かった……」
スマホで無事、懐中電灯が使えるようになった。
彼は、その、細々とした明かりを頼りに、再び登山道を、歩き始めた。
スマートフォンのバッテリーが無くなる前に、登山を終わらせなければいけなかった。
明かりがあるので、でこぼこの下り道も、進むことができた。
真っ暗では、もう、一歩も進めない状態だった。
彼は震える手で、スマホを持ちながら、歩いていた。
そして、下り道を、なんとか、下りきった。
そして、平坦な道に、出た。
その中を、彼は一人、まるで幽霊のように、スマホの明かりだけを頼りに、よたよたと、歩いていた。
歩き続けていた。
そしてとうとう、山道が終わった。
歩きやすい道に出た。
そこはもう、山ではなく、三峯神社であった。
すでに、三峯神社に、入っていた。
彼は、有名な、三峯神社を、まったく知らなかった。
「なんだ、この無人の、不気味な神社は……」
彼はそう、呟いた。
三峯神社には、人っ子一人、いないように思えた。
しかし、小さな建物が出てきた。
そこに、明かりがついていた。
明かりがついていたということは、誰かいるに違いなかった。
しかし彼は、人見知りであった。
本来は、三峯神社の人に、「ここはどこですか? ここから、どうやって帰るんですか?」と、泣きついて、尋ねなければいけなかった。
しかし彼は、恥ずかしがった。
自分が、ひどく、みっともない状態になっていると、自覚していた。
ぎりぎり遭難から逃れ、なんとか、神社に到着した、この情けない姿を、誰にも知られたくなかった。
だから、その建物のドアを、ノックしたりはしなかった。
彼は、神社の中を、ウロウロした。
おそろしく巨大な神社であった。
神社好きなら、誰もが知ってる、そこは、天下の、三峯神社だった。
「な、なんなんだ、ここは……? と、とにかく、バス停だ。バス停はどこなんだ……」
しかし、三峯神社のバスの最終は、4時30分で終わっている。
すでに時刻は、5時30分くらいに、なっていた。
遠くの方で、車が、神社の入り口から、出て行った。
その車の人間が、神社にいた、最後の人間のように、彼には思えた。
実際は、神社の中には、まだ人はいたのである。
天下の三峯神社である。
どんなときも、無人になるわけがなかった。
しかし彼には、それが、よくわかっていない。
たしかに、明かりがついている、小さな建物があった。
しかしそれと、人が存在していることとが、うまく結びつかない。
彼は、幽霊の街に来てしまったような、不気味な感覚を覚えていた。
「とにかく、もっと栄えている場所に行かないと、どうにもならん……」
そう思った彼は、三峯神社で人を探すのではなく、三峯神社を後にして、もっと栄えている場所を求めて、歩き始めた。
彼は適当に、歩き始めた。
しかし、それもまた、大間違いだったのだ。
三峯神社の近くに、「もっと栄えている場所」など、無い。
彼は、三峯神社から、ちょっと歩けば、八王子みたいなところがあると、勘違いしていた。
しかし、そんなもの、あるわけがない。
三峯神社を後にした彼は、幻に向かって、歩き始めていた。