雲取山で遭難か、遭難以外か(7)
投稿日
2024/09/26
早朝、愚者が、三峯神社の鳥居をくぐり、三峰千年の森を、歩いていた。
一度遭難した愚者は、再び、雲取山の山頂に向かって、歩き始めていた。
すると、登山道の、ど真ん中に、立派な鹿が、二匹、立ち塞がっていた。
神々しいほどの、立派な鹿たちであった。
まるで、千年の森の、鹿王国の、王と王妃のようであった。
まだ早朝五時くらいで、あたりはまだ薄暗かった。
王と王妃は人間の突然の出現に、驚いているようだった。
二頭は登山道のど真ん中で、驚きのあまり、呆然と、立ち尽くしているようだった。
愚者のほうも、目をむいて、驚いていた。
巨大な鹿の、突然の出現。
朝日を浴びてキラキラ光る鹿たちは、まるでファンタジーの世界から迷い込んできた、ユニコーンのようであった。
愚者は困っていた。
立派な鹿が逃げもせずに、登山道のど真ん中を、塞いでいるのである。
どうやってそこを通ろうかと、愚者は困っていた。
そして愚者は怖がっていた。
上り道の、曲がったところから、愚者を見下ろす立派な鹿は、ものすごい迫力の動物であった。
可愛いなんてレベルの話ではなく、ただひたすら、恐ろしい動物であった。
やがて鹿は、ハッと我に返ったように、突然、身をひるがえして、崖に向かって、走り出した。
それは、崖にしか見えないような、急傾斜であった。
そこを力強く、鹿二頭が、風のように走り出した。
凄まじい運動能力――人間の百倍の体力であった。
格闘しても、人間が、到底、勝てるような相手ではない。
ボクサーや空手家の世界チャンピオンでも無理である。
人間よりも、百倍くらいは、強そうだった。
なのになぜ、彼らは逃げるのか。
彼らがその気になれば、人間など、余裕で殺せるだろう。
その戦闘能力の差は、圧倒的である。
空手の大山倍達が、人間は武器を持ってはじめて野生動物と互角に戦える、と、言っていたが、それは本当だと思った。
銃を持って、はじめて、互角に戦える。
それでも余裕で負けそうである。
そのくらいの圧倒的な体力で、鹿たちは、崖のような急斜面を、風のように走り去った。
愚者はホッとして、登山を再開した。
それは、名誉挽回の登山であった。
彼はすでに、雲取山に、やっつけられていた。
山中で夜になり、神社から三時間歩き、力尽き、救助隊に助けてもらっていた。
彼は立派な、遭難者であった。
そのため彼は、雲取山が、怖かった。
このまま家に帰ったら、もう二度と、雲取山には来られないだろう。
これがトラウマになり、もう二度と、本格的な登山は、できないだろう。
その恐怖は、克服しなければいけなかった。
そのため彼は、衰弱した体にムチ打って、再び登り始めていた。
霧藻ヶ峰、白岩山と、経由した。
恐ろしくゆっくりと、愚者は歩き続けていた。
これ以上ゆっくりは歩けないくらいの、超スローペースで、愚者は歩き続けていた。
すると前から、天狗のような若者が、信じられないスピードで、下りてきた。
まるで飛び跳ねながら、下りてくるようだった。
きっと雲取山荘で、ぐっすり眠って、元気百倍になって、下山していたのだろう。
彼のほうはマイペースで、ゆっくり、登り続けていた。
そして、雲取山荘に到着した。
4時30分くらいに登りはじめてから、歩き続け、時刻はもう、10時30分くらいになっていた。
彼は、〝鈍引さん〟に、ラインした。
『おはようございます。俺は今、雲取山荘にいますよっ!』
『はあ? どういうことですか? もしかして、また登ってるんですか?』
『はい、朝から登り始めまして、ここまで来るのに、5時間半くらい、かかりました!』
それに対して、〝鈍引さん〟は、ラインを返してこなかった。
きっと、呆れてしまっているのだろう。
本気で心配してくれていた〝鈍引さん〟は、あまりにも調子に乗ってる彼のことを、怒ってしまったのかもしれない。
彼は、遭難して、救助隊のお世話になった分際で、懲りもせず、また朝から、登山しているのだ。
完全に頭のおかしい奴だと、きっと思ったことだろう。
こんな奴とは、今後二度と関わりたくないと、思ってしまったのかもしれない。
(ふふふ、すげえだろ、俺って、不屈の男なんだぜえ、ふふふ……)
〝鈍引さん〟にラインで報告して、彼は、悦に浸っていた。
そのように、己の不屈っぷり、逞しさをアピールして、なんとか〝鈍引さん〟の、気を引きたかった。
そして、できれば、好きになって貰いたかった。
しかし、愚か者を好きになる婚活女性は、世界中で、一人もいない。
中学生ではないのである。
愚か自慢や不良自慢は、中学女子にしか通用しない。
三十代半ばの婚活女性が、愚かな莫迦を、好きになるわけがない。
彼はそれが、全然わかっていない。
婚活女性の気を引きたいのであれば、安定した収入、穏やかな性格、安心感を提供できる、落ち着いた、賢い男性が、好まれる。
人生のパートナーとして、選ぶのである。
頭の悪い、愚か自慢の莫迦者を、好きになる婚活女性は、世界中で、一人もいない。
しかし彼は、ハイパー莫迦なので、体力自慢とか、愚か自慢で、女性の気が引けると、本気で考えていた。
まさに、脳内お花畑である。
その頭の中は、いまだに、中学生のままである。
そして彼は、なにはともあれ、無事に、雲取山の山頂に、到着した。
ここまで来るのに、今度は、道迷いは、起こらなかった。
無事に、何の問題もなく、山頂に、到着できた。
ではこのまま、もと来た道を――つまり、鴨沢バス停までの道を、下山していけば、今回の登山は、それで、無事に済んだはずである。
しかし、調子に乗った彼は、雲取山の、完全制覇を目指した。
つまり、全ルート制覇である。
鴨沢バス停から山頂までのルート。
三峯神社から山頂までのルート。
あともう一つ、三条の湯から山頂まで登ってくるルート。
彼はその、三条の湯ルートも、この機会に、征服することにした。
そのために、山頂付近の避難小屋あたりの分岐道で、道標に導かれるまま、三条の湯の方向に進んだ。
それがまた、良くなかった。
三条の湯ルートは、一番ヤバいルートであった。