雲取山で遭難か、遭難以外か(9)
投稿日
2024/09/28
登山初心者の痴れ者が、雲取山を、下山していた。
彼が下山していた、三条の湯ルート――そこは、野生の、動物王国であった。
その動物王国に、痴れ者が、闖入していた。
動物たちは、騒いでいた。
そして恐れていた。
痴れ者は、人間である。
人間は、動物たちを殺す。
彼らを炙り、彼らの肉を食らう。
人間は、彼らにとって、悪魔――残忍な、死神であった。
そんな、ぴりぴりした雰囲気の中、痴れ者は、木の枝を振り回しながら、登山道を歩いていた。
狭く、険しい、山道であった。
痴れ者は、クマの出現を恐れていた。
いまにもクマが出てきて、彼に襲いかかり、彼を食い殺すように、思えていた。
彼は、クマが出てきた場合は、木の枝を武器にして、クマと戦うつもりでいた。
その戦闘にそなえ、彼は、息巻いていた。
しかし、内心、途方もなく怖かった。
その彼の前に現れたのは、クマではなく、意外にも、人間であった。
その人間は、若く、ほっそりとした、イケメンの、スポーツマンであった。
その美男子が、風のようなスピードで、涼しい顔をして、向こうから、歩いてきた。
「おや、どうも、お疲れ様です」
美男子は、感じ良く、ニッコリ笑って、彼に挨拶をした。
彼は慌てて、木の枝を放り捨てた。
「あ、どうも、こんにちは」
彼は、自分よりも、十歳以上は年下のような若者に向かって、ぺこぺこと、挨拶を返した。
若者は、笑顔のまま、矢のようなスピードで、彼の横を、通り過ぎようとした。
「あ、ちょっと待ってください!」
慌てて彼は、呼び止めた。
「ん、なんでしょう?」
鈴の鳴るような、爽やかな声が、返ってくる。
「あのー、ちょっとお聞きしたいのですが……」
「なんでしょう?」
ニッコリ笑う若者は、見るからに親切そうである。
「あのー、あっちにずっと行けば、バス停とか、ありますかね?」
「バス停?」
「はい」
「ああ……、はい、ありますよ」
「そうですか。教えていただき、ありがとうございます! では、失礼します!」
彼は、真っ赤な顔で、ぺこぺこと頭を下げながら、若者から、逃げるように、遠ざかった。
彼は本来、見知らぬ人に、物を尋ねるのは、苦手であった。
今回、勇気を出して、尋ねたのである。
「ご無事を、お祈りします……」
若者は、彼の背中に向かって、そう、声をかけた。
そしてまた、彼は一人になった。
この、三条の湯ルートに入ってから、一時間以上、ずっと、彼は、誰にも会わなかった。
だから、
「もしかして、また道を間違えた?」
と、内心、不安に思っていた。
「本当に、この道で合ってるの?」
ずっと、そう思っていた。
もしかして、とんでもないところに行こうとしているのではないかと、実は内心、ずっと不安だった。
そんな時、見目麗しい若者が、むこうから、来てくれた。
彼は心底、ほっとした。
そして思わず、「この道の向こうに、バス停はありますか?」と、尋ねた。
すると若者は、ニッコリ笑って、力強く、「ありますよ」と、教えてくれた。
それで充分であった。
彼は道を、間違えてはいなかった。
この道の向こうに、確かに、バス停が、ある。
それだけ聞ければ、充分であった。
再び歩き出した彼は、また、新しい木の枝を、探した。
そしてそれを手に持ち、クマとの戦いに備えた。
しかし若者の教えてくれた情報は、あまりにも少なすぎた。
確かにその方向に、バス停は、ある。
だが、バス停までの道のりは、途方もなく、長い。
それを若者は、教えてはくれなかった。
若者は、この哀れな痴れ者に、こう言ってあげるべきだったのだ。
「確かにバス停はありますが、ここからだと、かなり遠いですよ。ここから三時間くらい歩いて、三条の湯に到着します。そこからさらに三時間歩いて、ようやくバス停――お祭バス停に、到着するのですよ。ものすごく、遠いです。あなた、悪いことは言わないから、今すぐここから、引き返しなさい。そして、鴨沢バス停を目指しなさい。そっちは人がよく通るから。あなた、見たところ、登山は初心者のようですね。あなたには、このコースは、荷が重すぎる。これからずっと歩き続けても、お祭バス停に到着する頃には、もうすっかり夜になっていることでしょう。どうせ照明器具も、持ってないんでしょ? やれやれ、無謀で愚かな登山者だ。ほんと、嫌になる。あんたみたいな人がいるから、山の遭難事件が、減らないのですよ。準備不足で、無謀な、大馬鹿野郎ですよ、あなたは。さあ、私の後ろから、ついて来なさい。途中まで、一緒に歩いてあげますから。まったく、身の程知らずな……。大馬鹿野郎ですよ、あなたは」
若者は厳しく、彼に、そう言ってあげるべきだったのだ。
若者は、いかにも、「この先、二時間くらい歩けば、バス停がある」、みたいな、軽い口調で、「バス停はある」と、彼に伝えてしまった。
それで彼は、安心してしまったのである。
しかし、その若者を責めるのは、酷というものだろう。
そもそも全部、彼が悪いのだ。
準備不足で雲取山に来た、彼が悪い。
たとえこれから遭難して命を落としたとしても、これはもう、すべて、自業自得である。
奥多摩で遭難事故は、年間四、五十件は、発生している。
つまり、一週間に一人は、遭難している。
あやうく遭難しかかったという話も入れるなら、奥多摩では、毎日のように、遭難に近いことが起こっている。