零円の登山家(2)
投稿日
2024/09/30
河辺駅をおりて、野獣は、例の山に、向かっていた。
「おとうさん、こっちこっち」
先ほど、電車の中で、小学校三年生くらいの少年が、彼のもとにやってきて、彼をその座席から、追い払った。
「どうも、すみません」
その父親は、平謝りに、謝っていた。
優先席に座っていた彼は、少年から追い払われ、別の席に、移動していた。
そして、電車の中では、その出来事を、考えないようにしていた。
考えると、もしかしたら、少年に対して、腹を立ててしまうかもしれないと、彼は、恐れていた。
とりあえず、幼い少年のしたことでもあるし、その件について、特に、腹は立っていなかった。
河辺駅で降りて、例の山に向かって、歩きながら、彼は、その件について、考えていた。
あの少年は、いったい、なんだ?
図々しく、俺を追い払うなんて、躾が、なっていない。
大人として、ガツンと、怒ったほうが、良かったのではないか。
少なくとも、その父親に、「ちゃんと躾けてください」と、嫌味のひとつも、言ったほうが、良かったのではないか。
彼が座っているというのに、図々しく、彼を追い払った少年は、あまりにも、無礼であるように、思われた。
しかし少年は、人を見ていたのだろう。
野獣の様子を見て、この大人は、怒らない大人だと、少年なりに、判断したのだろう。
「なんだ君は!」
と、ガツンと怒ったら、きっと少年は、ショックを受けていたことだろう。
なぜならまだ、小学校三年生くらいの、幼い少年なのである。
きっと、父親にも、母親にも、まるで、怒られた経験がないのだろう。
学校でも、わがまま放題に、振る舞っているのかもしれない。
小学三年生の、ガキ大将で、あったのかもしれない。
だからまだ、大人の怖さとか、あまり、知らないのかもしれない。
などというようなことを、思いながら、野獣は、歩いていた。
依然として、腹は立っていなかった。
腹を立てないように、気をつけてもいた。
そして、なんとなく、その少年が、自分の、子供の頃の姿と、似ているように、思えていた。
考えてみれば、野獣も、その少年の年齢の頃、その少年と、同じような性格だった。
その少年の顔立ちや、体型も、写真で見る、野獣の子供の頃の姿と、似ているように、思われた。
まさか、タイムマシーンでやってきた、俺自身なのか?……
などと、野獣は、考えたりも、していた。
だからこんなに、腹が立たないのか。
確かに野獣も、子供の頃は、わがまま放題の、偉そうな、威張った少年であった。
しかしその後、色々あって、現在のような、卑屈で、弱々しい、大人に、なってしまっていた。
きっとその少年も、そんな傲慢な性格だったら、今後、いろいろと、大変な目に遭うだろうなあと、思われた。
少年は、柔道とか、空手とか、なにか、格闘技をしたほうがいい。
今、喧嘩とか、強くても、怠けていたら、スポーツの訓練をしている、同級生なんかに、すぐに、体力面で、後れをとってしまうだろう。
そうなると、少年は、今はガキ大将かもしれないが、怠けていたら、スポーツの訓練を続けている同級生と、喧嘩して、やがて、負けてしまうだろう。
あの少年は、きっと、根性がないのだ。
野獣の小学生のときと同じく、あの少年は、きっと、根性がない。
ソフトボール部に入っても、その練習のきつさから、すぐに、逃げ出してしまうような、根性がない少年に、違いなかった。
そして根性がない少年は、いつまでも、威張れないのだ。
いつまでも、同級生よりも、喧嘩が強い、というわけには、いかない。
やがて、スポーツを頑張っている同級生に、根性のある同級生に、体力面で、追い抜かされてしまうだろう。
もともと運動が得意であった少年は、怠けているうちに、同級生たちに、次々と、追い抜かされてしまうだろう。
少年よ、男は、根性が、すべてなのだぞ……。
野獣は、その、根性のない少年に、それを、伝えたいような、気がしていた。
誰よりも根性がなかった、自分の子供の頃と、その少年の姿が、完全に、重なってしまっていた。
もしかして、その少年は、俺の、子供か?
しかし、それはない。
野獣の子供は存在していない。
もし野獣が、二十歳のときに、子供ができたとしたら、その子供は、考えてみたら、もう、三十歳になっているはずだった。
つまり、世の、二十代の人たちは、みんな、野獣の、子供の世代なのである。
あの人も、この人も、二十代の人たちは、考えてみたら、野獣の子供の世代なのである。
野獣はすでに、そういう年齢になっていた。